奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, car, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

世界を創る天才達 ―ザンジバルの子供達編―

こんなことを言うと、妻に「あなたは何もやらなかったくせに!」と怒られることは必至だが、過ぎてしまえば子育てなんてあっという間だった。言い換えれば、子供が子供でいた期間は、僕の人生の中で非常に短い間であった。そんなことを妻とまた二人だけになってしまった今、ひしひしと感じている。その短い期間の最中も、僕はアフリカへ、アジアへ、中南米へ出張を繰り返していたので半分も一緒に過ごすことは出来なかったと思う。帰国した僕を玄関で迎える子供達を見て、「おっ、少し大きくなったな」と感じるほどの長い出張も何度もあった。その間、すなわち僕が自分の子供達と過ごせない期間は、僕はアジア、アフリカの子供達と接しては、自分の子供達と重ねていた(比較していた)。

子供は親を選べないと言われるが、同様に子供達は生まれてくる国は選べない。僕が現地の子供と自分の子供を重ねていたのは、この子が日本に生まれていたら、あるいは自分の子供達がアフリカで生まれていたら、楽しいだろうか、おなかいっぱい食べることができるだろうか、なりたいおとなになれるだろうか、という答えのでないことばかりであった。

一方、子供達は僕のたわいない心配をよそに、自分たちでどんどん自分たちの世界を創っていき、その世界の中で形があるものだけで無く、思想をも創造していく天才なのである。その天才的能力は、僕の子供達も(日本の子供達も)、アフリカやアジアの子供達も同様であることがわかったことも、僕がこの仕事をしていて得られた大きな収穫の一つであると思う。アフリカで生まれてしまった子供達が可哀想ということはない。日本で生まれた子供達は、幸運であるとも思えない。物資や食料の豊かさ、自然条件の厳しさ等の違いは確かにある。しかし子供達の天才的な能力は“豊かさ”や“厳しさ”の違いぐらいでは決して揺るぎない。自分たちで世界を創造し、自分たちでその中に入り、自分たちで学んでいく。

しかし考えてみれば自分もかつては子供で有り、僕も世界を創造する天才であったのだ。その期間はあまりにも短かったが、確実に僕にもそういう時期があったはずなのだ。自分に子供が出来て、自分に子供がいるから世界の子供達を見るようになって、そして僕は大人になってから子供達が創造した世界にもう一度入ることが出来た。それは僕の人生の中でかけがえの無い経験だった。

今日のこのテーマを写真で表現をするのは難しいが、ザンジバルのストーンタウンで見つけた子供達、自分Worldの中で遊ぶ子供達を紹介していこうと思う。

小学生の高学年になって、初めて買ってもらった自転車のことを僕は一生忘れない。それまでは姉(当時高校生)のお下がり自転車だった。自転車は僕の世界を広げてくれた。単なる移動手段ではなく、自転車は子供達にとって大切な友人なのである。僕は自転車と一緒に寝たいと本気で思っていた。ザンジバルの迷路のような石畳の道を、子供達は自転車と一緒に生活している。

兄姉だろうか。僕には二人がたった今、二人だけで作った世界が見えたので、思わずファインダーで覗いて“世界”を切り取った。

泥団子を無心で造る女の子。これは僕も子供の頃によくやった。丸く、出来るだけまんまるにつくり、表面を撫でて擦ってピカピカにする。友達と形、大きさ、強度、光り輝き度を競ったものだ。僕の子供達にも作り方を教えた。兄も、妹も、これには暫く夢中になった。ピカピカになった泥団子を見つめる子供達の輝く目を、僕は今でも忘れない。

ストーンタウンの迷路を歩いていると、子供達がおままごとをしているところによく出くわす。どんなおままごとをしていたのか、変な日本人に覗かれて一瞬にして“世界”から出てしまった少女達の顔。ごめんね!世界を造るのも早いが、抜け出すのもすごく早い。

ストーンタウンの迷路ほど、エキゾチックな隠れんぼWorldが展開している町は無いと思う。隠れんぼ、あるいは鬼ごっこ?の世界に夢中になっている少女は、追ってくる鬼?に全神経を使い、ほぼ正面からカメラを向ける僕にも気づかない。

う~ん、こ、これは、一歩ところか、五歩ほど先のちょっと大人の“世界”を造ってしまったの?まさか、別れ話をしているのではないよね?未来の色男君!