奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

生活の息吹が見える、ストーンタウンの小さなお店たち

今年の1月と2月はザンジバルの出張だったので、いそいそとフィルムカメラをもちこんで、週末はストーンタウンでカメラとお散歩三昧をしてきた。カメラは、今回は古いNikonでは無く、Leica(これも決して新しくは無いが)にした。そしてフィルムはFomapanを初めて使った。僕の大好きなブロガーさん、「ふえふき羊」さんはいつもFomapanを使っていらっしゃる。そしてインドで、チベットで、そしてラダックで、写真に吸い込まれてしまいそうなぐらい美しい白黒写真を撮影されている。同じフィルムを使えば、僕もこんなに素敵な写真が撮れるか?と言えばそれは明らかにNoであるが、僕はどうしてもFomapanを使ってみたかった。Fomapanは、チェコスロバキア製のフィルムで、その存在は知っていたが僕は使ったことがなかった。

3月初旬に帰国したが、その後フィルムを現像に出し、そしてネガをデータ化してというプロセスにすごく時間がかかったしまった。僕自身も仕事で忙しかったし。というわけでブログにアップするのもこんな時期になってしまった。

さて、唐突だが、実は僕には関西の血が流れていることからお話ししよう。父は神戸、母は姫路の出身で、当然のことながらほとんどの親戚は兵庫県を中心に関西に住んでいる。我が家の食事はしたがって、全て関西風だった。例えば麺類と言えば蕎麦ではなくうどん。高校生になった頃だろうか、初めて駅の立ち食い蕎麦屋に入り、真っ黒な汁の蕎麦が出てきて髪の毛が逆立つほど驚いたことがある。

僕が子供の頃、比較的頻繁に我が家に訪ねてきた親戚は、神戸のおじいちゃんと(父方の祖父)と大阪のおっちゃん(母方の叔父)であった。この二人の共通点は商売人であるということだ。我が家はその頃、毎週日曜日は日本橋のデパートに家族で出かけるのが恒例であった。しかし神戸のおじいちゃんと大阪のおっちゃんは、「デパートなんてアカン、アカン、近所の店でこぉてあげ」と言うのであった。そして僕を連れ近所のお店を一回り。子供目からみてもあまり格好いいと思えない運動靴や服を、近所の商店街の個人商店で買うのであった。関西弁丸出しで商店のおじさん(あるいはおばさん)に、「子供に人気の靴はありまっか?この子に履かせたいのやねん。いろいろ見したってや」とまくし立てるのが僕は恥ずかしかった。買い物が終わっても長々と、聞かれてもいない自分のことを関西弁でしゃべりまくり、僕は靴の入った紙袋を抱えながら店の外で下を向いているのが常だった。これを日本橋のデパートでやられたらたまらない。と僕は子供心にも恐れていたので、しょうが無いから近所のお店巡りに付き合うのであった。

しかし今から考えると、神戸のおじいちゃんも大阪のおっちゃんも、コミュニティー(Community)を尊ぶ人だったのだと思う。すなわち、その地域、あるいは社会、住んでいる場所としての町を尊ぶ。そして共通の利害を持つ住民を大切にする心があったのだと思う。そしてそれは神戸のおじいちゃんも大阪のおっちゃんだけでなく、昔の日本人はそういう心が残っていたのだ。それが僕の父親(デパート崇拝者)ぐらいの世代から壊れ始めた。そして今の日本は、特に東京は、完全にコミュニティ-なんて破綻している。僕も含め、都会の人間は近所の住人のことをあまりにも知らなすぎる。

おそらくほとんどの日本人が毎日のように利用するコンビニに、僕にはコミュニティーは見えない。完全にマニュアル化しているファストフード店に、僕は暖かみを感じることが出来ない。東京で、地域住民の生活の息吹が見えるお店は、これからもどんどん減っていくのであろう。

ザンジバルの首都、ストーンタウンは石造りの街並みが美しく、かつてアフリカ大陸からの奴隷や象牙などの輸出で栄えた港町であり、町全体が世界遺産に登録されている。10世紀頃からアラブ商人が住み着き、15世紀になるとバスコ・ダ・ガマが発見したインド航路の途中上陸地点となり、そのままポルトガル領へ。さらにオマーンやイギリスなどの支配を経たことから、街中はアラブ系とヨーロッパ系の文化が融合した独特の雰囲気に包まれている。こんなフォトジェニックな町で、僕は人々の生活の息吹が見える、素晴らしいお店たちをFomapanに収めてきた。

まずはストーンタウンの町並み。素晴らしきFomapanの描写力!

ストーンタウンは、70年代を代表するロックバンド、クイーンのヴォーカル、「フレディー・マーキュリー」の生まれた地である(両親はインド系ザンジバル人)。ストーンタウンは昔からヨーロッパの人たちにとって、アフリカのエキゾチックな観光地として有名になったが、何年か前の映画「ボヘミアン・ラプソディー」でそれに拍車がかかった。

それではみなさん、今から僕こと東京のおっさんがストーンタウンのお店巡りに案内しよう。

忍法、隠れ身の術!

服地屋さんで、忍者のように背景と同じ模様の布を用いて隠れる女性達を発見した。そんな訳ないか、隠れる必要なんて無いし。でも、そんな面白さを感じて思わずシャッターを切ってしまった。

店舗なんて必要なし。どこでも魚屋さん

漁師さんだろうか、大きなマグロとカツオを路上で並べ、集まってきた人と大声でやり取りしながら魚を売る。今朝の漁で捕ってきたばかり。エラがまだピクピクと動いている新鮮さ。お刺身にした美味いだろうなあ。静岡の県知事さん、僕にはこんな素晴らしい魚を捕る技術も知恵もありません。この漁師さんの「頭脳と知性」に、僕は拍手を送りたいのですが。

「店舗なんて必要なし」の第2弾、食器屋さん(ちょっとオーバー)

道端にちょっとスペースがあれば、何屋さんでも始まる。この気軽さがアフリカの良いところ。

これは珍しい!海鮮乾物屋さん

ザンジバルの人たちにとって、タコは非常にポピュラーな食材だ。道端でタコを素揚げしているお店は彼方此方で見られ、通りがかりの人が爪楊枝で1つさしてポンと口にいれて、コインをおいていく姿はよく見ることができる。しかしこれは珍しい。タコの干物と貝(多分アサリ)の干物を売るお店。魚類を干物にして食する文化は、アフリカでは非常に珍しい。

これ、何に使うの?

いろんな動物の皮屋さん。一番右はトカゲの形を残している。左のほうは毛の感じから山羊かなあとわかる。でもこれ、一体何に使うんだろう。今度の出張で聞いてみようと思う。

牛乳屋さん

バイク(ホンダのカブ)の荷台にミルクタンクを積み、町中の顧客にミルクを配達。そういえば、僕の子供の頃は家に牛乳屋さんが毎朝配達にきていた。勝手口のドアの外に、牛乳瓶を置く木の箱があった。

商店街の路地

この商店街は靴屋さんが多い。天井から沢山の靴がぶら下がっている。

骨董品屋のショーケース

ストーンタウンには骨董品屋も多い。アラブ、ポルトガル、さらにオマーンの商人達が10世紀頃からスパイスを求めやってきたザンジバル。当時の航海は命がけだったと思う。そんな時代のコンパスだろうか。想いがどこまでも馳せる。

僕がこの地球で食べてきたもの

例えばゴルフで、初めてのメンバーさんと同じ組でラウンドする。前半の9ホールが終わりランチの時間になれば4人はもう打ち解けている。「空博さんはどんなお仕事されているのですか?」と、そういうタイミングで聞かれることが多い。僕が自分の仕事(長期間アフリカやアジアや中南米で水資源開発の仕事をしていること)を簡単に説明すると、

「それは大変ですね、お食事とかどうされているのですか?」

と聞かれることが多い。あるいは、僕はいくつかの大学で非常勤の講師をしているが、講義が終わると学生から、

「先生、アフリカでいったい何を食べてるんですか?」

と聞かれることもよくある。みなさんアフリカの食事に興味があるのか、それともそんなに長いこと日本食を食べずに大丈夫なのかと心配してくださっているのか、あるいはその両方か。興味をもたれることは良いが、僕は皆さんからご心配をいただくことをすこし意外に感じている。例えば、アフリカに割烹料理屋があって、お刺身か湯豆腐を肴に熱燗で一杯ということは絶対にあり得ないが、僕は別にアフリカでそれをしたいとは思わない。湯豆腐で熱燗は、神楽坂か荒木町あたりの小料理屋でいただくのが美味しいのである。また、僕は基本的に仕事での出張なので宿泊はホテルだ。僕を含めて外国人が泊まるようなホテルにいる限り、レストランでは普通の洋食、例えば朝食だったらパンに卵料理にサラダ等を食べているので僕は全然それで困るようなことはない。ただ、普通の海外出張ビジネスマンと違って僕はフィールドの調査がある。それは砂漠だったりサバンナだったり、そしてホテルも外国人が泊まるようなホテルでは無い。そういう時の食事が皆さん気になるのかなと思うので、今日はそんな話をしようと思う。

僕が贔屓にしている寿司屋の大将は、客が寿司の写真を撮影することを快く思っていない。「いったん付け台においた寿司は客に売ったモノだからしょうが無いですけどね、あんまり良い気分ではないですよ」と大将はよく言う。僕は大将の気持ちがよくわかる。レストラン等で提供された料理の写真を撮るという行為は、携帯電話、そしてスマートフォンの普及に伴って日常的になってきた。これは僕の感覚だが、特に女性にそれが多いと思う。おそらくSNS等で、「今日のランチはお寿司食べたよ!」的に友達にアピールするのが目的ではないだろうか。あるいはインターネットで頻繁に見かける食レポサイトに投稿する人もいるだろう。

僕は、良い料理を食べるという行為はその時の一瞬の芸術であり、その時間とその場にいる人たち(すなわち料理人、ホールスタッフ)の間にある気分、空気そしてお店の意匠、それらが全て合わさった芸であるから、写真なんて撮らずにその全てを味わった感覚を自分の記憶に止めておくべきだと思う。それは、美術館に行って、展示してある絵画を、あるいは彫刻を写真に撮る行為と同じだと思う。そんなことをしては、芸術鑑賞にはならない。

また前フリが長くなってしまった。

という訳で、僕は食べることが(呑むことはもっと?)大好きであるが、料理の写真を撮ることは主義ではない。何が言いたいかというと、今回のブログでご紹介する写真はしたがって、僕が撮影したものではない、ということをまずお伝えしたかったのである。同じプロジェクトの同僚達、あるいは現地で僕たちのアシスタントをしてくれているエンジニア達が撮った写真である。したがってフィルムで撮影した写真ではない(エジプトの1枚を除いて)ということでもある。

エチオピアの村の食堂でランチをいただく僕

水のペットボトルが3本あるので、きっとこのときは3人だったのであろう。僕の大好きなエチオピアの伝統料理ワットとインジェラのランチ。エチオピアはアフリカ54カ国の中で唯一独自の文字(アムハラ語)を持つ国、すなわち、歴史と文化がある国である。したがってエチオピア料理は、シンプル極まりない他のアフリカ諸国と比べて異彩を放っている。インジェラは我々のご飯やパンのような主食、炭水化物である。エチオピアは高地で土地も痩せているため、米や小麦の栽培は難しい。そのため稗(ひえ)や粟(あわ)の仲間であるイネ科のテフという穀物が主食だ。エチオピアではテフの粉を水で溶き、その後3日かけて醗酵させて生地とし、これを巨大な鉄板で薄いクレープのように片面だけを焼き上げてインジェラを作る。ワットはおかずであり、肉、野菜、豆類を煮込んだ料理で、シチューの様だったりキーマ・カレーの様だったりする。この日は3種類のワット、そのお皿の下に敷かれている分厚い布のようなものがインジェラ。この写真ではインジェラの様子がわかりにくいので、一人前で頼んだ状態の写真をお見せしよう。

ワットとインジェラ一人前

お盆の上にインジェラが敷かれ、その上にこれはラムかな?のワットと、横にちょこんとスパイス。まずインジェラを適当な大きさにちぎり、それでワットをつまみ、スパイスをチョンと付けて食べる。とても美味しい。ビールが欲しくなる。

次はお隣の国、スーダンに行ってみよう。

豪華スーダンのフルコース・ランチ

スーダンには古来より、さまざまな外来文化、すなわち北アフリカやアラブ、あるいはトルコやエチオピアからやってきた商人がスーダンに様々な食材を持ち込んだとされている。主な食材は、小麦と羊肉、牛肉、トマト、ゴマ。特にゴマはスーダンの主要な輸出品である。この日はスーダン政府のエンジニア達とフィールド調査に行く途中立ち寄った食堂でランチ。パンも野菜もお肉もみんなワンプレート。北アフリカの多くの国では、野菜はキュウリでもトマトでも葉物でも、なんとタマネギでも、生でかじるのが基本。右側の小さなお皿にのっている白いものは、山羊の乳から作ったチーズ。丸いパンに肉と野菜、そして塩気のある山羊のチーズを少し乗せて包んで食べると実に美味しい。ワインが欲しくなる!

そして食堂の軒先に間借りして営業しているお茶屋さん。食堂からチャイ何杯って叫ぶと、まったりと甘いチャイをもってきてくれる。

チャイ屋さんの女性達。お洒落です

次はスーダンの北側のお隣さん、エジプトに行ってみよう。

エジプトは世界四大文明の1つ、紀元前3000年から2000年にかけて生まれたエジプト文明ナイル川の堆積でもたらした肥沃な大地が育む豊富な食材、実に多彩な料理が楽しめる国である。カイロにいれば・・・、の話だが。僕がいたのは砂漠の遊牧民(ベトウィン)の国、シナイ半島の砂漠である。食事の事情もカイロやナイルデルタの都市部とは全然違う。

南シナイの街、エル・トールの食堂でランチ

エジプトの主食はアエーッシュと呼ばれるパン(写真手前の丸い円盤状のパン)。僕たちは座布団パンと呼んでいた。アエーッシュは旧約聖書に出てくる“種なしパン”(無発酵のパン)で堅く噛み応えがある。古代ではアエーッシュはユダヤ教キリスト教において典礼における聖餐の際に食された。それの由来となった最後の晩餐では、イエス・キリストが弟子とともにアエーッシュを食べたとされている。現代ではほぼ、朝、昼、晩、3度の食事の主食はアエーッシュである。この日のおかずは、羊の挽肉に何かを混ぜてこねてから串に巻いて焼くコフタ(3皿あるソーセージ状の肉)とレンズ豆のスープ、そして切っただけのトマトとにんじん。アエーッシュの中は空洞なので、エジプト人は半分にちぎり空洞を広げ袋状にすると、そこにコフタや野菜を詰め込みサンドイッチのように食べる。エジプトのコフタは実に美味しい。これもビールが合うだろうなぁ。

調査でいったん砂漠に入ると、もうそこは食堂どころか砂以外には何もない。日帰りで町に帰れる調査の時は、アエーッシュと山羊のチーズを持っておなかがすいたらボソボソと食べる。ボソボソとしているが、噛めば噛むほど味わいが出てきて僕は好きだった。数日にわたるときは野菜、アエーッシュ、そして生きている羊を連れていった。写真はハラルに基づいた処理、すなわち家畜がもっとも苦しまない方法で屠殺しているところ。喉仏の真下の、気管・食道・頸動脈・頸静脈の4つが交わる箇所を一気に切り、血液は自然に落下させる。

砂漠でイスラム務め、責任、使命を果たすため許された(ハラル)羊を食す
(僕のフィルムによる撮影です)

エジプト人はまず客人(この関係では僕たち)にまず羊の頭のスープでもてなす。味付けは少量の塩だけだがとても濃厚で美味しい。1973年にリリースされたローリングストーンズのアルバム「山羊の頭のスープ」は当時、動物愛護協会からの抗議を受けた。しかし僕たちは尊い命をいただいて、生きていき、新しい生命を生み、命を繋げていく。生きるということはそういうことだと思う。

さて、アフリカ北部から離れて、サブサハラ(サハラ以南のアフリカ)の食事事情を見てみよう。最もアフリカらしいアフリカの国、ステップ高原に赤いマントのマサイ族が走るタンザニアでの食事。

タンザニアの主食、プランテインとヤマ・チョマ

プランテインはアフリカの多くの国で主食となるバナナである。しかし我々が果物として食べるバナナとは違い、皮の色は緑で、バナナ自体も甘みはない。アフリカの人はこれを焼くか煮るかして、おかずと一緒に食べる。今でこそアフリカの人もライスを食べるようになったが、1990年代の中半頃までは、主食と言えばこのプランテインと、ウガリというトウモロコシの粉を蒸したものであった。この日のおかずはヤマ・チョマ。ヤマは「肉」でチョマは「焼く」のスワヒリ語だが、実際は焼いていない。牛肉の素揚げだ。これにライムを搾り、塩をパラパラかけて食べる。とてもシンプルだが、これがリアルアフリカ。ここまででお見せした北アフリカエチオピアとは大分様子が違うのがわかる。

タンザニア、カゲラ州で巡り会った焼き空豆

カゲラ州はルワンダと国境を接している山岳地域である。このときはあのルワンダの大虐殺の難民キャンプのプロジェクトで訪問したときである。車の前輪のタイヤがバーストして走れなくなり、救助が来るのが次の日になったのでその日は車中泊をせざるをえなくなった。僕は用意してあった非常用の食料を食べると言ったが、ドライバーが近くの村に食堂を探しに行った。あいにく食堂は見つからなかったが、村長さんが、かわいそうな日本人に食事を提供したいとのオファーがあり、ご馳走になることになった。ずいぶん沢山のアフリカの国々に僕は行ったが、こんなところで焼き空豆が食べられるとは夢にも思わなかった。これは熱燗が欲しい!

さて、他のアフリカはほぼタンザニアの食事事情と同じなので(焼き空豆を除いては)、一気にアジアに飛ぼう。まずは僕の大好きな国、ラオス。ここもネパールと同様、別に発展しなくても良いのでは?このままの方が幸せなのでは?と開発の仕事をする僕にそう思わせる美しい国だ。でも、お料理が美味しすぎて長くいると太るので僕は大嫌いだ。

ベトナム的?スープ・ヌードルと生野菜、味付けはライムと唐辛子とヌクマム

ここはラオス南部、僕の大好きなマルグリット・デュラスの名作「ラマン」(邦題:愛人)の舞台になったサバナケット。泊まっていたホテルの朝食の時間が遅いので、朝は早く出る必要がある僕はいつも通り沿いの小さな一軒家で営業しているベトナム風のスープ・ヌードル。朝、かなり早い時間から営業してくれているので、助かった。どれぐらい朝が早いかって?スープ・ヌードルを作ってくれる女性達はまだパジャマのままであることからそれは想像して欲しい。

作ってくれるのはパジャマ姿のお姉さん達

サバナケットの東部、ベトナムとの国境が近い村の食堂でランチをとる。ラオスのご飯(お米)といったら日本の餅米のようなご飯だ。それをこの籐で編んだかごに入れて出してくる。今日のおかずは鹿の干し肉(ご飯の上)と野菜の炒めもの(鹿の隣)。鹿の干し肉は噛めば噛むほど旨みがでてくる。これはウイスキーとやったらたまらないはずだ。

ラオスのご飯はもち米が定番。もっちりとしていて冷めても美味しい

食堂にメニューなんか無い。今日出せる品の1つずつ客に見せて決めさせる。これが鹿の干し肉

今日は鹿の干し肉があるわよ!

ナマズの鍋もできるというので頼んだ。ナマズを輪切りにして鍋に入れ、ゆだったらいろんな野菜を入れる。淡水魚だがまったく臭みはない。非常に美味しい。

ナマズは豪快に輪切りだ

さて、最後はチャイとチャパティーだ。僕はインド、ネパール、パキスタンスリランカバングラデシュ、カレー圏(僕が勝手にそう呼んでいる)の国々は全て行った。しかもそれぞれの国でほぼ全部の県や州は行き尽くしている。日本はほとんどどこも行ってないが・・・。カレー圏の国で、僕のフィールドワークを大いにサポートしてくれたのは、なんと言ってもチャイとチャパティーだ。シナモンとスパイスの香ばしい香りが引き立つ、まったりとしたミルクたっぷりのチャイ。それに焼きたて熱々のチャパティーをくるくる巻いて食す。これならどこの村でも、食堂は無くても、ちょっと人通りのある道の脇にはかならず見つかる。チャイとチャパティーはいつも僕を満たしてくれる。

四角いチャパティーは珍しい(スリランカ

インドではミルクも茶葉も水もスパイスも一色単に鍋で煮るが、バングラデシュはミルクにお茶を注ぐ。それぞれ作り方があるが、どれもほっこりと美味しい。

バングラデシュのチャイ屋さん

僕は、お料理はアートだと思う。そしてそれは、パリやニューヨークやトーキョーだけにあるものではない。人々が生活をしているところには、それぞれのアートがある。

だから皆さん、ご心配いただかなくても、僕は大丈夫なのです。

僕を乗せて地球を走った車たち

僕は車が好きだ。

僕が少年時代、幼稚園から小学校の高学年になるころあたりまで、日曜日は家族で自家用車(当時はわざわざそう呼んでいた)にのって日本橋のデパートに行くのが毎週の恒例だった。僕は決まって紺のブレザーに紺の半ズボン、そして白いハイソックスに革靴はいていた。その姿が恥ずかしい、と僕が気づく年頃まで、我が家は毎週その恒例行事を続けていた。

デパートは、買い物だけで無く1960年代の日本の家族の行楽のひとつのような存在だったような気がする。デパートに行く。子供心にもその響きは実によかった。父はデパートのことを一人で「百貨店」、あるいは”Department Store“とフルネームで呼んでいた。よく行った百貨店は、日本橋白木屋高島屋だった。三越もたまに行った。白木屋は途中で東急デパートになったが、江戸時代から続いていた呉服屋で、日本の百貨店の老舗中の老舗だったと思う。僕の世代より若い人は、もう白木屋なんて名前も知らないだろう。

家族全員で百貨店に行っても、母と姉の女性陣と、父と僕の男性陣は別行動することが多かった。そしてお昼近くになると、家具売り場で女性陣と男性陣は合流し、4人で最上階の大食堂でランチを食べるのである。家具売り場いつも閑散としているから、お互いを見つけやすいので。父は自分と僕にはかならず洋食系のランチを選び、ウエイターにナイフとフォークを持ってこさせ、僕に洋食の作法を教えた。百貨店の大食堂でナイフとフォークで食事をしている人は、僕と父以外にはいなかった。

僕と父は百貨店ではなく、近くにある日英自動車のショールームに行って、ジャガーオースチン・ミニ、MG(モーリス・ガレージ)、トライアンフといった英国車を飽きずに眺めていたことも多かった。僕の車好きはその頃から始まったのだ。当時の日本橋路面電車が走っており、その合間を縫うようにボンネットバスオート三輪のトラックや、国産の小さな自家用車と、黒い社用車が行き来していた。希に外車を見つけると父は異常に興奮して車名を叫び、エンジンの排気量や気筒数、主要なスペックを早口で説明して僕に教え込んでいた。日本橋は、当時としては最も外車を見ることが多いエリアではなかっただろうか。いつの間にか僕も外車が通ると、直ぐに車名やスペックを正しく言えることができるようになっていた。日本にも今のように沢山の外車が走る時代が来るなんて、子供の頃の僕は想像できなかった。当時の我が家の車はトヨタのパブリカ。800ccの空冷エンジンで、家族4人を乗せていろんなところを走りまくった。当時の政策の国民車構想を受けて開発されたトヨタ初の大衆車だった。

その頃、僕は週に何度も大学病院に通う必要があった。生後6ヶ月で重度の肺炎を患った僕は、小学校のほぼ6年間は慢性気管支炎で病院通いが続いた。母はそのために当時女性では珍しい運転免許を取り、小学校の前に車を横付けにして僕を待ち、大学病院に連れて行った。気管支炎の治療のため、定期的に注射をすることが必要だった。病院に行く車の左側の助手席に座る僕は、右手でシフトレバーを握る。右側の運転席に座る母の左足がクラッチを踏み、ギア名(ロー、セカンド、サード、トップ、と母は4速のギア名を正確に言った)を僕に告げると、僕も「サード!」と叫びながら素早く指定されたギアにシフトチェンジをする。いつの日からか、こうやって母と二人で運転するようになっていた。もちろん、僕がやらせて欲しいと頼んだのが最初だったと思う。母は、学校が終わっても友達と遊びに行けずに病院通いで注射ばかりの僕を不憫に思い、こんなことを許したのであろうと思う。お陰で大学生になって直ぐに行った自動車教習所で、教官を隣に乗せて初めて車を運転したとき、「君、無免許で運転していたでしょ」と言われてしまった。

また前振りが長くなってしまった。

そう言う訳で車好きの僕は、今回のブログで僕を乗せて地球を走りまくった車達を紹介しようと思う。プロジェクトの車両は、基本的にクライアントが調達してくれる。そしてドライバーは、先方政府機関から出してもらう。あるいは、その国で雇ったドライバー付きのレンタカー。したがって、自分で購入して自分で運転する車ではない。そして僕たちが走る道は舗装道路ではなく、砂漠やサバンナ、時にはジャングルだ。当然四輪駆動の車になってしまう。僕は少年時代からスポーツカー、しかも小さなスポーツカーが好きだった。したがって四輪駆動の車には興味が無いが、1つのプロジェクトで何年も僕を乗せて荒れ地を走りまくってくれた車達には、それぞれ愛着が沸いてくる。今回はそんな車達を紹介しよう。

カトマンズのパシュパティナートと三菱ジープ(1985)

古い順から(すなわち僕の若い順から)紹介しよう。まずはネパール。カトマンズシヴァ神を祭るネパール最大のヒンドゥー教寺院、パシュパティナートでの一枚だ。僕が若い!20代だ。まだ髭を生やしていない!このときは三菱のジープだった。この型のジープはもはやクラッシックカーだ。タイヤのサイドウォールの厚みがすごい。重い車重と分厚いタイヤで、とてもふわふわした乗り心地だった。堅いボディーで僕が乗ってもボンネットがへこむことはない。

ヤンゴンでオーバーヒートを起こしたヒンドゥスタン・アンバサダー(1986)

次は1986年のビルマ(今のミャンマー)。車はインドの誇る国産車、ヒンドゥスタン・モーターズのアンバサダーだ。ベース車は1950年代のモーリス・オックスフォードで、イギリスから生産設備ごと輸入してインドで製造を開始した。モーリスは1913年から1984年の歴史を持つイギリスの自動車メーカーだ。今はBMWが製造しているが、名車「ミニ」の開発はモーリスだった。このアンバサダーもなんと1958年から2014年まで製造されていた。僕はこのアンバサダーは非常に気に入っていた。日本で個人輸入しようかと思ったぐらいだった。写真はオーバーヒートを起こして動かなくなった僕のアンバサダーを押してくれる通行人のビルマの皆さん。おそらくどこかに行こうとしていたのだと思うが、「ま、いいか。のんびり行こう」という気になって写真を撮った。そういう気分にさせてくれる国だった。

シナイ半島の砂漠を走りきったトヨタ・ランドクルーザー(1991)

つぎはエジプトのシナイ半島の砂漠を走りまくったトヨタランドクルーザーシナイ半島は1989年~1993年の4年間のランドクルーザーで北シナイの調査、そして1995年~1999年は4年間の三菱パジェロで南シナイの調査、シナイ半島の全てを走りまくった。当時の僕はベトウィン(砂漠の遊牧民族)よりも砂漠を知り尽くしていた。

砂漠の木陰で休息する三菱パジェロ(1996)

三菱パジェロは南シナイの4年間、僕たちと一緒に走ってくれた。パジェロと言えばパリ・ダカールラリー。僕たちはラリーさながら、砂漠の中を走りまくった。写真は、砂漠では滅多に出会えない樹があったので、木陰で休息を取るパジェロと僕たち。

カラハリ砂漠でドロにはまった日産ダットサン・ピックアップ(2000)

2000年、ナミビアカラハリ砂漠で1/100(百年に1度)の降雨があり、窪地に水がたまった。このような乾燥地では降雨量のほぼ半分は蒸発し、残りの50%が地表で流出して表流水(川)になるか、地下に浸透して地下水になる。このときのカラハリ砂漠は地表の流出が多く砂漠の低地ではいたるところで洪水になった。この年は、南アフリカモザンビーク等、アフリカ南部で巨大サイクロン(インド洋に発生する発達した熱帯低気圧)が発生した年だった。僕たちを乗せたダットサン・ピックアップは泥沼化した砂漠の道路でスタックして、この日は宿舎にたどり着けたのは深夜だった。

ダットサン・ピックアップを抜き去るキリン(2000)

ナミビア北部の中央高原のブッシュをダットサン・ピックアップで走っていたら、突然現れたキリンに追い抜かれ、あっという間に見えなくなった。ダットサンも、50~60km/hの速度で走っていたのに。キリンの足の速さに驚いた。一瞬の出来事であり、とっさの撮影でピントが合っていない(もちろんマニュアルフォーカスのカメラで撮影)。

エチオピア、フルーテ?カフェでランチ休憩する日産パトロール(2003)

日産サファリは、アフリカではパトロールという。「サファリ」はスワヒリ語で「旅行」という意味だ。日本人にとってはちょっと冒険みのあるエキゾチックな名前なので日産が戦略的につけた名前なのであろう。アフリカでは「パトロール」と呼ばせた。この日は首都アジスアベバから北部のアファール州まで、パトロール君と一緒に走った。途中でカフェがあったのでランチ休憩だ。パトロール君も休ませないと、エンジンの温度はかなり上がっている。エチオピアは、54カ国のアフリカ諸国のなかで唯一独自の文字を持つ国、右側の白い看板がエチオピアの文字だ。外人が通りかかるようなところではないのに、真ん中の看板には” WEL COME TO FRUITE CAFÉ“と書いてある。” WEL COME”はワン・ワードなのにスペースが空いている。そしてFRUITEは、Eが多い。FRUIT(フルーツ)と言いたかったのだと思う。カフェには果物なんて無かったけど。アフリカのこういういい加減なところがかわいい。

タンザニア、サバンナの大草原でスタックするトヨタ・ランドクルーザー(2010)

2010年、タンザニアの内陸部の大草原サバンナで大降雨が発生した。乾燥地帯での急な豪雨は非常に危険だ。ランドクルーザーは泥沼化した道路の深みにはまり、スタックした。近くの村の青年達が集まって救助を手伝ってくれたが人力では所詮無理だった。無線で救助を呼び、車両は後日重機を出して引き上げてもらった。僕たちの移動はこのようなスタック、車の故障、そして遭難というリスクは常に隣り合わせだ。したがって、2,3日は生きていける水と食料は常に車に積んでおかなければいけない。

ザンジバル、日産ラバナ(2024)

一気に今の僕のプロジェクト、ザンジバルまで飛んで来た。車は日産ラバナ、日産の輸出向けのダブルキャビン・ピックアップトラックだ。プロジェクトの車両には(車だけで無く調査の機材等にも)”From the People of Japan”(日本の人々から(の支援です))というステッカーが貼られている。” From the Government of Japan” (日本の政府から(の支援です))と書いていないところがちょっと嬉しい。僕も納税者だから。

おまけ。東京での僕の相棒だったMGB

日本にいるときの僕の毎日の通勤、休日のゴルフ、一人でのお出かけはMG(モーリスガレージ)の1979年製のB型ロードスター、通称MGBが僕の相棒だった。2008年まで僕と一緒に走った。子供達が幼稚園児の頃は、毎朝出勤途中の幼稚園までMGBで送った。子供の頃、父と一緒に日英自動車で眺めていたMGのうちの1台だ。冬はまだ良いが、今、東京の夏に乗ったら暑いだろうなぁ。そしてあの超重いハンドル、今の僕で切れるかなぁ。そろそろ僕も人生最後のステージ。そのステージにもう一度この相棒をと思うのだが・・・。

コダクロームな、あるいは2Bの鉛筆な国。それはバングラデシュ

こういうことを言うと、きっとバングラデシュの人に怒られると思うので小さな声で囁こう。バングラデシュは・・・、決して美しくはない。もう少し具体的にいうと、一般的な美意識からすると、美しさの基準から外れている、と思われる。あまり具体的ではなかったかもしれないので、1つ例を挙げてみよう。

むかし、アフリカのどっかの国からの帰路でロンドンに到着すると、次の乗り換え便のJALがストで欠航になっていた。UAEエミレーツが日本に就航していなかった時代だ。当時アフリカに行くには、全てヨーロッパ経由だった。日航は、代償として僕に以下の3つオプションをオファーした。

① ロンドンでストが終わるまで待つ(ホテル代も食事代もJAL持ち)

② その日の夜のBA(英国航空)で成田に飛ぶ

③ このまま(そのときは朝だった)コペンハーゲンに飛び、翌日の夜便のSASで日本に帰る(コペンハーゲンでのホテル代も食事代もJAL持ち)

僕は迷わず③を選んだ。あのアンデルセンが愛したコペンハーゲンの街、あの絵本のような街に行けるのだ。僕はストを起こした日航パイロット達に感謝しながらコペンハーゲンへ飛んだ。運河に沿って伝統的なパステルカラーの建物が並ぶ町並みは、まるでおとぎの国のよう。コペンハーゲンはどこに行っても、何を見ても美しい。コペンハーゲンを、一般的な美意識からすると“美しい”という基準内にきっちりと入っているとしよう。バングラデシュはその基準から外れている、と僕は個人的に思うのである。しかしその基準に入っていないことは何ら悪いわけではなく、基準外にも“美”と同等の価値は沢山ある。今日はバングラデシュにおけるその価値について考察したい。

ヒマラヤを源流として、インドを流れ、ベンガル湾に巨大な三角州を形成したガンジス、メグナ、ブラマプトラの3大河川。それらはヒマラヤから、インドから、ミャンマーから、あらゆる汚染物質を運び込み、低地で堆積させ三角州を形成し続ける。その三角州に世界一の人口密度を誇る1億6,468万人の人口。アフリカにちょっと分けてあげたいほど水は溢れるほどあって、どこに行ってもジャブジャブの水浸し。不衛生な表流水の飲料による水因性疾患の蔓延による高い乳幼児死亡率。20世紀最大の環境汚染問題とされた地下水のヒ素汚染。

バングラデシュは混沌の国である。と以前のブログで僕は書いた。その混沌はこの地形、水、人、が成したものである。もっと言えば、バングラデシュは社会、国際関係、自然、それら地球上の全ての環境の終末地点であり、その万物から排出される灰汁の沈殿物でできた地ではないだろうか。インドからの独立(1947)、東パキスタンとしてパキスタンからの分離(1955)、そしてバングラデシュとしての独立(1971)。その道のりは、宗教間の対立、列強国の都合の良い思惑と数々の嘘、そして極度の貧困で攪乱されながら人々の血と汗をいくら沈殿しても、いつまでたってもアジアの最貧国から抜け出せない。

すなわち、その堆積と沈殿は恐ろしいほどに濃度が高いのである。僕は映画が大好きであるが、濃度の濃い映画が大好きである。いわゆるハリウッド映画は、時間がもったいないので僕は見ない。濃い映画といえば、古くは巨匠フェデリコ・フェリーニ監督、現代ではミヒャエル・ハネケ監督、ラース・フォン・トリアー監督あたりだろうか、僕が好んで鑑賞する作品は。バングラデシュにはその濃さがあるのだ。

皆さんはコダクローム64というフィルムをご存じだろうか。コダクロームは米国イーストマン・コダック社が1935年に発売したスチール写真用カラー・リバーサル・フィルムである。コダック社の最も象徴的なフィルムで有ったが、2009年にその製造が終わった。僕の最も好きなフィルムであり、2009年までの僕のカラー写真はほぼ全てコダクロームであった。

発色を押さえた、渋みと濃厚感のある色調を好んで使った写真家も数多い。実に深みのある色彩再現は、コダクロームしか撮れない世界だった。実際にコダクロームで撮影した写真を2枚ほど、紹介しよう。

瓦礫の街で水を汲むカブールの少女達

これは2001年の9.11の同時多発テロに対する、米軍の報復が終わった直後のアフガニスタンのカブール。実に渋みのある発色であり、空気の冷たさまで映し出されている。

スリランカ、井戸に集まる女達

これはスリランカ南部の県、ハンバントータの農村部の大きな素掘りの井戸。毎日沢山の女性が集まり、水汲みだけで無く選択も食器洗いも(実はこれは衛生上、ホントはよろしくない)おしゃべりも、日中の半分はここで過ごす。実にコダクロームらしい、どんよりとした濃厚感のある絵だ。

さて、次はいよいよバングラデシュにおける”美“の基準外にある“美”と同等の価値を見ていこう。これらは全て富士フィルムのカラー・リバーサル・フィルム、プロビアで撮影した写真である。コダクロームの製造が終わってからの僕のカラー写真は、全てプロビアになった。プロビアはコダクロームと違い、すっきり、クッキリと、目映いばかりの色の鮮やかさと立体感ある絵が特徴である。コダクロームとは対極的なフィルムと言えよう。しかし、どうだろうか、バングラデシュをプロビアで撮影すると、不思議なことにその絵はコダクロームが蘇るのだ。

バングラデシュ・ジョソール県、ヒ素で汚染された井戸と村人達

濃厚な色合い、地面と家の土壁に広がる水染みのヌメリ感。誰が見たってこれはコダクロームの絵だ。

モノクローム?湖畔の午後

これは白黒フィルムで撮影したのではない。逆光で撮影すると、鮮やかな色調が自慢のプロビアも、どんよりとしたバングラデシュの空気感を映し出す。

リキシャ(人力車)の脇から僕を覗くおじさん

リキシャの背面からリキシャの運転手を撮影していたら、通りがかりのおじさんに覗かれた。1つ前の白黒フィルムのような絵と同様、色調が単調になるのもコダクロームの1つの傾向であるが、プロビアでそれが出た。

あるいは、2Bの鉛筆のような国だと思う。バングラデシュは。白黒フィルムで撮影すると、2Bの濃い鉛筆でザラッとスケッチしたような絵が撮れる。

バングラデシュ農村部の子供達、屈託の無い笑顔に救われる

どうだろうか、この空気感。濃厚、かつ低い彩度。堅い暗部の諧調。それらは、澄み渡る空気ではなく、物憂げな雰囲気となって映し出される。これがバングラデシュの堆積であり、混沌の中での人々の懸命な生活の蓄積であり、バングラデシュだけがもつ“一般的な美の基準”の外にしかない芸術的な価値なのである。

連携。ドナーと国際機関が見せた底力

「空博さん、すみません、帰国を1、2週間ほど延期してもらうことは可能ですか?」

ダッカで海外出張用の携帯電話の着信を受けると、日本からクライアントさんの国際電話であった。この年(2017年)の8月から9月にかけ、ミャンマーから国境を越え、80万人のロヒンギャ難民がバングラデシュのコックスバザールに避難してきた。クライアントからの電話は、至急コックスバザールに行って欲しいという依頼だった。日本政府は、ロヒンギャの難民へ安全な水の供給支援をしたいと考えているところ、水源の開発が出来るかどうか視察してきて欲しいとのことだった。僕はダッカのホテルのテレビでBBCニュースを毎日見ていたので、いつかは来るなとは思っていたが、こんなに早く来るとは予想外だった。この電話を受けたのは、10月だった。

ある地域(しかも何もインフラが無い地域)に、たったの1、2ヶ月という短い期間で、80万人(ちなみに日本だと、山梨県佐賀県が人口約80万人である)の人々が急に集まると、いったいどういう事態になるか想像できる人はいるだろうか。僕はできる。80年代はパキスタンペシャワールアフガニスタン難民キャンプで、90年代はタンザニアのカゲラ州のウガンダの難民キャンプで仕事をしてきたから。それは想像を絶する最悪な衛生状態に陥り、水因生疾病が蔓延し、難民の死亡率を著しく増加させる。食料も必要だが、それ以上に水の供給が緊急に必要である。

この頃、バングラデシュの日本の支援による全プロジェクトは、ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件(2016年7月1日)を受け、厳しい渡航制限、すなわち、「一回の渡航は1プロジェクト2名までにすること」および「1渡航の滞在は最大で2週間までにすること」の制約を受けていた。2017年の4月からプロジェクトは再開したものの、この制限のお陰で僕は2週間バングラデシュで仕事をし、1週間は日本に帰り、また2週間バングラデシュというサイクルを繰り返していた。クライアントからロヒンギャ難民キャンプの調査の打診を受けたときは、ちょうどその2週間の滞在の最後の日の前日。「さぁて、あさっての晩はお刺身で熱燗だな♪」と考えていた時であった。電話を受けた僕は、「1渡航の滞在は最大で2週間」という渡航制限のことが心配であった。そのこと(刺身と熱燗のことでは無い)を言うとクライアントさんは、「大丈夫です。今回の空博さんの期間延長は、既に外務省から特別に許可を取り付けてますから」と答えた。

それは素晴らしく早い根回し、ありがとうございます(とホントに思ったかどうかは忘れた)。

僕は頭の中の“刺身と熱燗”を両手でつかみ出してゴミ箱に捨てると、2日間でコックスバザールの地形や地質条件を文献や既往調査のレポートで読み込んだ知識を頭に詰め、ダッカからコックスバザールに飛んだ。

ロヒンギャ族ミャンマービルマ)最南西部のベンガル湾沿岸地域、ラカイン州に住むイスラム教徒である。もともとは百年以上前のイギリス植民地時代にイギリス領インド帝国(現在のバングラデシュも含む)から労働者として当時のビルマに連れてこられた人々ある。原因をたどっていくと、ロヒンギャ難民だけでなく、今世界中で聞こえる悲しい不協和音はいつも列強国の帝国主義にたどり着く。

無理矢理連れてこられたロヒンギャの人々は、今もってミャンマー国民とは認められて(市民権を有して)おらず、仏教国ミャンマーでは異教徒として排斥され続けている。100年以上も。ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている原因はもう1つある。それは日本も絡んでいるのだ。1944年、それは日本がビルマを占領していた時期、第2次世界大戦中で最も過酷で無謀な戦いとして知られているインパール作戦だ。作戦は、当時イギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指すものだった。この作戦で日本軍はビルマラカイン州に住む仏教徒武装化させ、戦闘に利用した。同じくイギリス軍は今のバングラデシュイスラム教徒―それがロヒンギャ達だったのだーを武装させ、ラカイン州に侵入させた。この作戦は実質2つの大国にそれぞれ操られたイスラム仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、両教徒の対立は取り返しのつかない頂点に達した。ひどい話だと思う。これが今もってミャンマー国民(仏教徒)がロヒンギャを排斥し続ける大きな原因になっている。ロヒンギャは今、「世界で最も迫害された少数民族」と呼ばれている。

このような環境下で、ロヒンギャの若者が、イスラム過激主義に洗脳されていったことは、善悪は別にしても容易に想像ができる。若者たちは、ロヒンギャ武装勢力「アラカンロヒンギャ救世軍」(ARSA)を結成した。今回の難民大量流入のきっかけは、ARSAによるミャンマーの警察施設の襲撃の報復として、ミャンマー国軍がロヒンギャに対する掃討作戦を発動し、集落を焼き払い、乳幼児や女性、高齢者を含む住民を無差別に殺害したことに依る。弾圧の犠牲者は「控えめに見積もって1万人」(国連調査団)、「最初の1カ月間で少なくとも6700人」(国境なき医師団)などと推計されている。この掃討作戦は国際社会でミャンマーへの非難が渦巻いたほか、ノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチー国家顧問(当時)がこの事態に積極的に対応しなかったことも激しい批判を浴びた。国連調査団はミャンマー国軍この掃討作戦をジェノサイド(大量虐殺)と認定したが、スーチー国家顧問は国際司法裁判所(ICJ)でそれ(ジェノサイド)を否定している。

コックスバザールの空港に着くと、国連の職員が僕を出迎えてくれた。空港から各国ドナー(国際協力機関)や国際機関の職員が集まる政府系機関の会議室に直行すると、それぞれが自分たちがやっている活動と、僕に提供できる支援、それらは情報だったり、人材の提供だったりを紹介してくれた。当時、バングラデシュの水セクターの開発は日本がトップ・ドナーだっただけに、他ドナーの今回の日本への期待は大きかった。

僕は次の日から警護車両の付きで、国連が用意してくれた案内と調査助手のスタッフと一緒に難民キャンプとその周辺を走りまくった。無駄な時間がまるでない。何をするにもドナー間は連携し、常に先回りして手筈を整えていてくれる。

本来なら手つかずの自然が広がるコックスバザールの丘陵地帯の未舗装の道路が、大量の各国のドナー車両で渋滞しているという異様な光景にまず驚く。そして難民キャンプに入り、劣悪な衛生状態にさらに驚く。僕は難民キャンプ支援の仕事の経験はある方だと思うが、難民発生からこれほど短い時間でキャンプ入りしたのは初めての経験だった。また、ロヒンギャ難民達の生活環境の劣悪さもさることながら、その周辺地域の住民(バングラデシュ人)への影響、特に衛生面への影響もひどい状況だった。

僕の最初のこの調査で、3カ所の地下水開発の有望地域を発見した。それを報告するとクライアントは直ぐに予算をつけて、日本から詳細な調査のための機材と技術者を派遣してくれたので僕は本格的な調査を開始することが出来た。日本の調査の結果、かなり大規模な水量を得ることが出来るとわかると、複数の他ドナーや国際機関が直ぐに施設建設の協力を申し出て、瞬く間に水道施設が完成した。

僕がこの仕事を始めた頃と大きな違いは、この各国のドナー間の連携力の強さだ。

しかしこの連携を、難民や紛争と言った緊急事態だけではなく、広く国際社会が調和できる活動に繋げてくれないだろうか。そういうことに協調してくれる国をどうしたら増やすことができるのだろうか。僕が学生の頃は無かったが、最近は多くの大学で「国際関係」や「国際協力」的な学科を設けている。実は無宗教な日本人、具体的にいうとキリスト教でもイスラム教でも無い日本人って、そういうことに“協調してくれない国”からはポジティブな感情を持ってくれていることが多い、と僕は感じている。国際関係を学ぶ次世代の日本の若者には、是非とも活躍して欲しい。

ロヒンギャ難民は、ミャンマーラカイン州からバングラデシュとの国境となるナフ川を渡ってコックスバザールに来る。
写真はナフ川の辺の緊急に建設したバングラデシュ移民局の事務所。難民はまずここで登録される。遠くに見える山脈がミャンマーラカイン州、その手前の森の前に見える細い白い線がナフ川。川幅は非常に広い。たどり着けず、海に流されてしまったボートも多い。

難民の家は、細い竹とビニールシートで急ごしらえしたもの。
家の中にも外にも、人、人、人、人、人・・・・。家の中も見せてもらったが床はなく、地面のまま。たまたま中を見せてもらった何件かのビニールシート家の1つが、結婚直後にミャンマー国軍の掃討作戦に巻き込まれた新婚の夫婦だった。若い二人の絶望した暗い顔が今でも頭に残る。

極度に劣悪な衛生状態の一番の被害者は、子供達である。
この環境から直ぐに脱出させないといけない。

ロヒンギャ難民の子供。
一瞬でも微笑んでくれると、僕はとても救われる。

 

僕たちは屈しない

僕の父親は大の新しいモノ好きで、あらゆる家電製品、自家用車(当時はそう呼ばれており、後部トランクには「自家用」というステッカーが貼られていた)が発売されると直ぐに新しいモノを購入していた。僕の少年時代、すなわち1960年代は、家電製品や車が飛躍的に発展し、庶民に普及していった時代だった。

カラーテレビはその頃、家電製品の花形だったのではないだろうか。まだカラー放送の番組がほとんどない頃、既に僕の家にはカラーテレビがあった。新聞のテレビ欄には、カラー放送の番組には番組タイトルの横に誇らしげに「カラー」と書いてあった。少女漫画「ひみつのアッコちゃん」もその数少ないカラー番組のひとつだった。その時間が来ると、近所の人がうちにカラーテレビを見に来て、アッコちゃんが始まると「うわー、綺麗ねぇ!」と歓声が上がった。

当時の僕は小学校の高学年生。学校が終わり家に帰ると、自分の部屋にランドセルを放り投げ、居間のかなりのスペースを占領する父の自慢のステレオセット(当時は恐ろしく大きくて家具調だった)のスピーカーの間に鎮座する神々しいテレビ(これも家具調で、テーブルのように四本の足が生えていた)のスイッチを入れ、アッコちゃんと遊ぶのが日課だった。

ところがあの日は完全に様子が違っていた。テレビのスイッチを入れると、鎖で吊された巨大な鉄の玉が建物に打ち付けられる白黒の画像が延々と映し出されていた。チャンネルをひねっても(当時のテレビは大きなダイアルを摘まんで、ガチャガチャと回してチャンネルを変えていた)、どの放送局も“巨大な鉄の玉”と建物を取り囲む緊迫した大勢の警官の映像しか映っていない。

浅間山荘事件である。

居間の隣は当時すでに大学生だった姉の部屋だった。姉の部屋からはジミ・ヘンドリックスの雷のようなギターのリフが(あるいはジャニス・ジョップリンの天地を引き裂く叫び声だったかもしれない)、爆音で流れくる。僕の頭の中で、浅間山荘に打ち付けられる鉄の玉とジミのギターが妙に同調した。僕のティーンエイジャーの100%を占める、激動の1970年代の始まりだった。

「広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動」

これは、日本の警察庁組織令第三十九条によるテロリズムの定義である。そもそも、テロリズム (Terrorism) とは恐怖 (Terror) から派生した言葉であり、言葉としての定着は、フランス革命の際の「恐怖政治」をきっかけとしている。ただし、これは権力者が恐怖をもって自国民を統治する形態である。政治や宗教の争いに発するテロは、有史以来、洋の東西を問わず存在した。しかし、その様子が変わってきたのは1970年代からだと僕は感じている。アメリカのテロ研究家、クレア・スターリングは、「国際テロ」の登場を1968年のPFLPパレスチナ解放人民戦線)のローマ発エルアル航空機ハイジャックとし、国際テロが猖獗をきわめた1970年代を「恐怖の10年」と名付けた。極左の日本の若者も、1970年代には多くのハイジャックやテロ事件に関係していった。世界に潜在するテロの炎は消えること無く、その後は同じ一神教イスラム教、キリスト教ユダヤ教)同士の憎しみへと再び燃え広がり、2001年の911アメリカ同時多発テロ事件にまで発展し、現在も続いている。

2016年7月2日の日本の朝、僕の睡眠はバングラデシュダッカにいる同僚からの国際電話によって中断された。昨夜、ダッカ市内にある外国人に人気のレストランでテロリストの襲撃があり、日本人を含む多くの外国人が殺害されたとのことであった。日本大使館からは、全員外出禁止令が出たとの連絡だった。

「プロジェクト、中断になってしまうかもしれませんね」

同僚は弱々しくつぶやいた。ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件(2016年7月1日)である。7人の武装テロリストにより、日本人7名を含む28名の外国人が殺害された。日本人の7名は、全員我々と同業者であり、やはりバングラデシュの開発プロジェクトを担っていたエンジニアであった。

実はその一月ほど前、すなわち2016年の5月の末、僕はダッカデング熱を発症してしまった。デング熱は、蚊に刺されることによって感染する疾患で、急激な発熱で発症し、発疹、頭痛、骨関節痛、嘔気・嘔吐を伴い、血中の血小板が極端に減少する怖い病気である。血小板は出血を止める役割があり、健康な体では血小板数は15万~30万/μL(マイクロリットル)あるところを、僕は4千/μL以下に減少し、体内の至る所で出血が止まらなくなっていた。ちなみに血小板が1万/μL以下になると致死レベルとされている。僕はダッカの病院で入院・治療したがとても危険なレベルに達したので、保険会社が手配したタイのドクタージェットで迎えに来てもらい、バンコクの大病院に移送され入院した。同僚からダッカのテロ事件を知らせる電話を受けたときは、バンコクの病院を退院し、日本に帰国して自宅で静養していた2日目だった。これは(僕のデング熱)これで、僕にとっては生死をさまよった非常に大変な出来事であったが、ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件はもっと大変な事件であった。僕がデング熱を発症していなければ、僕たちもあの日あのレストランで食事をしていたかもしれない。

同僚からの電話の数日後、バングラデシュの日本政府による援助のプロジェクトは全て中止になり、僕の同僚を含む沢山の日本人技師は帰国した。それから約10ヶ月、プロジェクトは再開することは無く、僕は大学を卒業して以来最も長く日本にいる日々を経験した。そして長い沈黙の後、政府はいよいよプロジェクトを再開を決定した。しかしそれには、5つの条件、すなわち、1)渡航前に対テロ訓練を受けること、2)一回の渡航は1プロジェクト2名までにすること、3)1渡航の滞在は最大で2週間までにすること、4)日本政府によって安全が確認された指定のホテルに宿泊すること、5)外出はバングラデシュ武装警官のエスコートのもと行うこと、がついての渡航だった。

僕たちのプロジェクトは、当時のバングラデシュでは非常に大きく、プロジェクトメンバーも合計で18名いた。その中から渡航する2名、それはプロジェクト・マネージャーの僕と、もう一人、それを決める葛藤、対テロ訓練・・・、たった2週間で何ができる?渡航前の怒濤の準備で一ヶ月があっという間に過ぎ、僕はバングラデシュに戻った。それから約5年間、僕は多くの渡航制限を引きずりながら、プロジェクトを運営してきた。

テロの特性として、かつては弱者の側に置かれた人々の対抗手段という側面があった。「ある者にとってのテロリストは他の者にとっては自由の戦士である」(one man’s terrorist is another man’s freedom fighter)というテロについての有名な格言もある。古くは、初代内閣総理大臣伊藤博文を暗殺した安重根は、もちろん日本ではテロリストと見なされているものの、韓国では独立の英雄と位置づけられている記念館が開設され、切手にもなった。しかしこれは、テロ事件に多く存在する二面性を意識することが、暴力性にのみ目が行きがちになる国際テロの解決を進める上で不可欠であるという意味であり、もちろん弱者と言えども、暴力で対抗することに対する正当性は何らない。ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件、911アメリ同時多発テロに、一体何の正義があったのか。ダッカ事件の犯人のうち数名は、バングラデシュでは富裕層の子息で、有名大学の学生だった。それがアルカイダの流れをくむイスラム原理主義者に洗脳されて起こした事件だった。正義でもなく、弱者でもない。繰り返すが、正義があれば、弱者であれば、暴力で主張をして良いという大義はあり得ない。

地球上の生物で、言語を持つのは人間だけである。すなわち我々人間は、地球上で最も高度に自分の意思を相手に伝え、そして相手の考えを詳細に聞くことができる生物なのである。しかし、我々人間は、地球上の生物で、唯一お互いを殺し合う生物でもある。これは、絶対におかしい。単純に考えてもおかしい。

僕はバングラデシュのプロジェクトの5年間、厳しい渡航制限と多くの制約の中、仕事の質を落とすこと無く淡々と仕事をこなし続けた。それが、僕たちエンジニアの、テロリスト達に対する返事なのだ。我々は、決して屈しない。

渡航前の対テロ訓練の様子。銃声、爆発音が聞こえたら直ちに取る姿勢の練習をしている。日本に、そんな訓練を提供する会社があることすらも僕は知らなかった。

厳しい渡航制限かでの現地調査。武装警官が常に僕たちを取り囲み、村人からも遠ざける。本当は、村の人たちの声を聞きたかったのに。

車での移動は、前と後で武装警官の車両に挟まれて移動する。写真は、僕を乗せた車の前の警護車両をフロント・ガラス越しに撮ったもの。我々を守ろうとするバングラデシュ政府の姿勢は嬉しいが、サイレンを鳴らし、他の車両に道を譲らせながら猛スピードで走るのは・・・、逆に目立ってしまうのではと心配した。

 

水はあれども・・・、バングラデシュの場合

1971年に独立したバングラデシュは,不衛生な表流水(河川、表層の溜まり水etc.,)の飲料による水因性疾患(下痢等)が蔓延していた。国際機関(国連、WHO等)は、水への困窮度を示す指標の1つとして「乳幼児(5歳未満の子供)死亡率」を用いる。単位は人/千人であり、1,000人当たりの出生乳幼児のうち何人が死亡したかで表す。世界には水が飲めなくて、あるいは不衛生な水の飲料により死に至る乳幼児は非常に多いため、乳幼児死亡率は水への困窮度のバロメーターになる。ちなみに現在(2021年)の乳幼児死亡率第1位の国はシェラレオネ(アフリカ)で78.3人/千人、日本は192位で1.7人/千人である。日本の1.7人は、“下痢”で亡くなったとは思えないが。独立当時(1971年)のバングラデシュの乳幼児死亡率は、148.2人/千人である。もちろん時代が違うので単純に比較は出来ないが、非常に高い数値である。

1971年の僕は小学校の5年生であった。年の離れた姉や従兄弟の影響で僕はロック少年になっており、1970年にジョージ・ハリスンがリリースした“All Things Must Pass”か、1971年に、ボブ・ディランエリック・クラプトンジョージ・ハリスンレオン・ラッセル等の豪華メンバーが出演したチャリティー・コンサートのライブ盤「バングラデシュ・コンサート」のレコードの、どっちを買うかで非常に悩んでいた。どちらも3枚組のLPで、小学生の僕がそれを買うには、清水の舞台から3回転ひねりで飛び降りる覚悟が必要だった。

話がそれてしまったが、僕にとってのバングラデシュとの関わりはロックからだったのだ。

バングラデシュは端的に言えば、大陸の大河川の河口の三角州であり、地形も低く水資源が豊富である。したがって本来は、僕のような水資源のコンサルタントはお呼びではない。でも、「水資源が豊富である」と言えば聞こえが良いが、もっとはっきり言わせてもらえばどこに行ってもジャブジャブの「水浸し」の国だ。これでは実際、水質の問題、衛生の問題が大きい。

独立後のバングラデシュは表流水の飲料を止め、1970年代初頭からUNICEFの支援を受け全国的な地下水(井戸)利用への転換を展開した。その結果1,000万本を超える井戸が建設され、人口の約95%が“安全な水”にアクセスが可能になり、水因性疾患率や乳幼児死亡率は劇的に下がり、当時は偉大な開発成功例として評価された。

しかしながら、1993年に衝撃的な事実が判明した。地下水にヒ素が含まれていたのである。そして調査により、3,500万人が砒素ヒ素に汚染された地下水を飲料水としていることが判明したのである。ヒ素原子番号33番の元素であり、日本では古くからねずみ取りに用いられてきた毒性の強い元素である。1998年の「和歌山毒物カレー事件」が記憶にある方も多いと思う。あの事件で用いられた毒が「ヒ素」である。バングラデシュの地下水ヒ素汚染は、20世紀最大の環境汚染問題とされている。

バングラデシュにおけるUNICEFの地下水普及活動を、「援助で導入された、現地の条件に適さない技術によるもの」と指摘する国際協力研究者もいるが、僕はそうは思わない。UNICEFのアプローチは公衆衛生学上妥当であり、現代のアジア、アフリカ、かつての日本、さらには1800年代のヨーロッパにおいても、地下水利用により水因性疾患の蔓延を克服してきた歴史がある。バングラデシュの地下水砒素汚染は、この歴史で蓄積された知見さえも覆した非常に希な自然条件と言える。

2003年から2014年まで続いたタンザニアのプロジェクトの後、僕はバングラデシュのプロジェクトに、プロジェクト・マネージャーとして従事することになった。インド、パキスタンスリランカと、ほとんどのカレー圏の国では仕事をしてきた僕だったが、バングラデシュは、プロジェクトとしては初めてだった。そして何よりも、これまでのように、水を(単に)開発するプロジェクトでは無かった。人間と水、水を取り巻く社会、そのような切り口でプロジェクトを常に俯瞰する必要があった。僕はプロジェクト開始の2015年から終了の2022年までの6年間で、何十回もバングラデシュを行き来することになった。

1970年代に掘削されたUNICEFの井戸。ずいぶん古いタイプのハンド・ポンプ(手押しポンプ)だが、未だに現役。結果的にはヒ素汚染患者を増やしたが、この枯れ木のような井戸で一体何十万人の命が救われたことか。

水場に集まる村の人々。子供も大人も老人も、水場ではみんな笑顔だ。
飲み水も、洗濯も、シャワーも、料理も、みんなこの水だ。我々は人々がどれほど水へ依存しているのか、真剣に考えていかないといけない。

我々の調査を見守る村の子供達。何時間でもじっと見ている。
前列の子供にピントをもって来て、2列目の少年からぼかそうと思ったのがやや失敗で、前列の少年のピントも甘い。しかしその結果全体がソフトフォーカスとなり、少年達の「僕たちの水は大丈夫だろうか・・・」という不安感が映っているような気がする。