奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, car, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

僕がアフリカを伝える意義

僕はこのブログでアフリカについて沢山のことを書いてきたが、アフリカを考える上で、いやアフリカだけではない、この地球上の全世界(社会)を考える上で避けては通れない1つのことをまだ書いていない。それはまさに今、僕が仕事をしているザンジバルで起こっていた事なのに。さらにそれは、これまでの僕のブログ「まっすぐな国境線」や「国に名前をつけるということ」で書いてきた、かつてのヨーロッパの列強国が、自分達の都合で勝手に国境線を引いたり国の名前を変えたりしていたことよりも遙かに恐ろしいことなのに。

そう、それは「奴隷」のことである。

こういうことを書くことに僕は非常に躊躇を感じるが、あえて書こう。

2019年公開のイギリス映画『イエスタデイ』は、交通事故による昏睡状態から奇跡的に回復した売れないシンガーソングライターの青年が、目覚めた世界は史上最も有名なはずのバンド「ザ・ビートルズ」が存在しないパラレルワールド(僕たちが生きる世界と同一の次元を持ちながら、並行して存在するもう一つの別の世界)であったという設定で始まる。すなわちその青年は、ある日突然に全世界でビートルズの名曲を覚えている唯一の人間となり、自らの作品としてビートルズを歌い大スターになるというコメディ映画だ。この映画を見たとき、僕はとっさに、もしアフリカで捕られ、アメリカで無償の労働と非人道的な差別に苦しみ続けたアフリカの人たちがいなかったら(すなわち奴隷という悲劇がなかったら)、音楽の世界でブルースやジャズは生まれなかったのではと思った。すなわち、僕にとっては神のような存在であるスティービー・ワンダージミ・ヘンドリックスも存在しなかったことになる。1970年代にまったく新しい音楽の楽しさを開拓し全世界で愛された、アース・ウインド&ファイアーも存在しない。いや、それどころではない。奴隷を使っていた側の人種、すなわちビートルズローリングストーンズも存在しなかったであろう。なぜなら彼らもチャック・ベリーロバート・ジョンソンのような、アフリカ系のアーティストのブルースやロックンロールの影響で発生した音楽だから。

だからと言って僕は、決して「奴隷という悲劇」を肯定している訳ではない。先ほど“非常に躊躇を感じる”と言った意味はここにある。奴隷という悲劇は、このような側面(音楽)から見ても世界的に非常に大きな影響を与えているということを言いたかったわけである。そんなことを考えながら僕は、東アフリカの奴隷貿易の拠点であったここザンジバルで、もう一度奴隷について考えようと、この日曜日に僕のホテルの直ぐ近くにある「東アフリカ奴隷展示館」の見学に行った。

East African Slave Trade Exhibit(東アフリカ奴隷展示館)
1800年~1909年の100年以上にわたり、スルタン(今の国名ではオマーン)はザンジバルを統治し奴隷貿易で大いに繁栄した。ケニアタンザニアウガンダコンゴモザンビークから奴隷として捉えられた人々はここで世界中に売りさばかれた。西アフリカでの奴隷貿易の拠点はセネガルやガーナにあった。

展示物の一つ、奴隷として捉えられたアフリカの人々の写真。皆首に鎖が繋がれている。

アメリカの大ヒットテレビ番組「ソウル・トレイン」は1971年から放映された。ジェームス・ブラウン、スリー・ディグリーズ、今その名前を聞いただけでもワクワクするアフリカ系アメリカ人の偉大なアーティストのライブ演奏に合わせてダンサーが踊りまくる。この映像に少年時代の僕は夢中なった。なんてかっこいいんだろう、僕も黒人に生まれてくればよかったのにとさえ思った。

1977年、アメリカではテレビドラマ「ルーツ」が大ヒットし、日本でも非常に高い視聴率を記録した。アフリカ系アメリカ人の作家、アレックス・ヘイリーが実際に自分の家族のルーツをアフリカ(今のガンビア)まで取材して書いた小説が原作であった。このドラマはアメリカ国家史上最も暗い側面のひとつである黒人奴隷の問題を正面から描き、社会現象と言えるような大反響を世界的に巻き起こした。当時僕は高校生であったが、ソウル・トレインと同様テレビにかじりつくように夢中になって毎日視聴していた。恥ずかしながら世間知らずな僕は、高校生になって、このアメリカのテレビドラマを見て、初めて奴隷問題の背景とアフリカ系アメリカ人が現代でも抱える苦悩について知るのである。

奴隷市場跡地に、この悲惨な歴史を忘れないようにイギリス統治時代に建設された大聖堂(背面)と、当時の奴隷の競りの様子を再現したモニュメント(手前)

奴隷市場の地下にある牢獄(男性用)
高さは僕が座っても頭をかがめないと天井に頭がつく。小さな窓から昼間だけ光がさす。真ん中で黒い影を作っている四角い溝は排泄をするところ。地形が低いので、満潮になるとこの溝に海水が入り、干潮時に排泄物が流される。食事もここでしていたとのこと。いったいどんな食事が与えられていたのだろうか。この極度に狭く劣悪な衛生環境で、どうやって食べていたのだろうか。

奴隷市場の地下にある牢獄(女性用)
この狭さで(男性用も)常時70~80名のアフリカ人が詰め込まれていた。

奴隷市場の地下にある牢獄(女性用)に観光客が入ってきたところを撮影してみた。彼女たちは四角い排泄溝に立っているが、それでも頭が天井についている。いかに狭いかを感じていただけるであろうか。

当時使われていた鉄の首輪と鎖

朝になると首輪と鎖で繋がれたアフリカの人々は、市場に立たされ競りにかけられる。どんな気持ちで立っていたのだろうか。現代の日本では北朝鮮による日本人拉致問題がある。ある日突然、家族や友達とも切り離されて知らない世界に連れて行かれる恐怖と悲しみを想像できるであろうか。鎖に繋がれて一日中立たされても売れなかったら、またあの劣悪な衛生環境の地下牢獄に押し込まれる。売れなかったことを悲しむのだろうか。それとも売れずに狭い地下牢獄にまた押し込められることに失望するのであろうか。しかし、売れたらどんな世界に連れて行かれどれほど惨い目に遭うのだろうか。家族や友達と突然切り離された悲しみに加え、この途方もない絶望と恐怖。そしてアフリカに残された家族と友達の底なしの悲しみ。これ以上の悲劇がこの世界に存在するだろうか。

無表情さが訴える終わりのない絶望と恐怖

イギリス人の医師・宣教師・探検家のデイヴィッド・リヴィングストン(1813~1873)は、ナイル川の源流を調査するためにヨーロッパ人で初めて当時は暗黒大陸と呼ばれていたアフリカ大陸を10年かけて横断した。調査中にいろんな国で何度も見た首輪と鎖で繋がれたアフリカの人々を不審に思い、調査を終えたリヴィングストンはその後をつけてザンジバルにたどり着いた。そしてスルタン人が奴隷貿易を続けていることを発見し、その後の人生を奴隷制度を撲滅する活動に貢献した。マラリアに罹患しタンザニアで死亡したリヴィングストンの亡骸は、彼の遺言通りアフリカの人々により開胸され、取り出された心臓をアフリカの大地に埋葬し、遺体は防腐処置を施しイギリスに返された。

奴隷市場跡の大聖堂

奴隷市場跡の大聖堂の中
写真中央の白い柱に取り付けられた小さな十字架は、リヴィングストンの心臓が眠る大地に育てられた木から作られた。小さいけれど、ザンジバルタンザニアの人々のリヴィングストンへの敬意が込められた十字架である。

全ての国で奴隷制度が撲滅してから生まれた僕は、その子孫達がアメリカで創造した素晴らしい音楽を聞きながら育った。しかし、「ソウル・トレイン」や「ルーツ」に夢中になっていた少年時代、まさか僕が40年以上も沢山のアフリカの国々で仕事をするなんて想像もしなかった。そしてその結果、アフリカを通して世界を見ることが出来た。これは貴重な体験だったと思う。そんなアフリカに対して、僕はとてもリヴィングストンように偉大な貢献は出来ないけれど、せめてこのブログでアフリカをお伝えし続けていきたいと思う。


 

 

唐辛子はいずれ甘くなる

Geologist(地質学者)の端くれである僕は、もちろん進化論を信じている。いや、信じる、信じない、の問題ではない。進化論はGeology(地質学)の重要な原理の一つである。

アメリカのケンタッキー州には「創造博物館」があり、ここでは進化論を否定している。この博物館では、地球上の万物は旧約聖書『創世記』の字義通り神により天地創造がなされ、そのことを科学的にも実証できるという立場をとっている。僕はこの博物館の存在を知ったときは非常に驚いた。科学技術(Geologyも含めて)の最も進んでいる国の一つのアメリカで、しかもこの現代で、そんな博物館があることに。

しかしアメリカは、イギリスのプロテスタント移民がメイフラワー号で渡来し、原住民を支配しながら宣教を進める中で形成された国家である。プロテスタントカトリックの戒律の緩みに対する批判から生まれた宗派であり、聖書を厳格に重視する傾向がある。だからその影響が今でも残っており、それなりに現代科学と宗教が同居しているのであろうと想像することは出来る。科学と宗教の対立は、コペルニクスの地動説やダーウィンの進化論の発表から始まった。これらの理論は、聖書の記述と矛盾するため、多くの宗教的指導者は批判してきた。近代自然科学の祖であるイタリアの天文学者・物理学者のガリレオ・ガリレイは、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受けている。しかし現代では対立をすること無く、宗教に対する忠誠心と科学技術を同居させる心を人々は備えたと言うことであろうか。僕はそう解釈している。

進化の直接的な原因は大きく3つに分類されているが、そのうちの一つの「自然淘汰」は最もわかりやすい。自然淘汰とは、生物が生存競争の中で環境に適応した有利な形質(あるいは特徴、能力)を持つ個体が生き残り、子孫を残すことで、種全体が世代を重ねるごとに変化・進化していく仕組みである。原始海洋で誕生した生命はあらゆる種に進化し、やがて川をつたい淡水域に侵入する種や、さらには陸上に上がる種も出現した。水中ではエラ呼吸、陸上では肺呼吸と皮膚呼吸ができる両生類、淡水と海水の両環境に適応できる広塩性の魚である鮭などは、まさに生物の進化の生きる証明者である。もっと身近な例を挙げると、江戸時代の日本の成人男性の平均身長は155cm、現代のそれは170cmである。これも食べ物や生活様式が変わった故の進化である。

このように、人間も含め動物の世界では進化は理解しやすいが、植物の世界ではどうだろうか。植物で進化を感じる機会は、おそらく日本では少ないのではないかと思う。ところがアフリカの植物たちは、見る者に進化を強く感じさせる。今回はそんなアフリカの不思議な植物たちを見ていこうと思う。

タンザニア中部のマサイステップ(高地草原)のバオバブの木

アフリカの象徴的な木と言えば、まずこのアオイ目アオイ科バオバブであろう。バオバブはサバンナ地帯に多く生息する。幹はお酒の徳利のような形をしていて、高さは約30メートル、直径は約10メートルに及ぶ巨大な木だ。太い幹には理由があり、10トン近くの水を蓄える驚異的な生命力を持つ。これはまさしく進化だ。この熱帯乾燥地の環境下で、数千年を生き抜く。サン・テグジュペリの名作『星の王子さま』では、地球を壊してしまう恐ろしい植物の象徴として描かれている。しかし実際のアフリカでは、その巨大な姿、厳しい環境で生き抜く力から「生命の木」と称され人々の暮らしと文化に深く根ざしている。実際その果実はオレンジより豊富なビタミン、ミルクより多いカルシウムが含まれている。もう少しバオバブの写真を見てみよう。

ザンジバル、ストーンタウンのバオバブ
木を取り囲むように家が建設され、人々はそこで生活している

ザンジバル、ムトワラ州の海岸地帯のバオバブ
バオバブは内陸のサバンナ地域に多く生息するので、海岸近くで見られるのは珍しい

タンザニア、ムトワラ州のキルワ等のバオバブ
このバオバブも、珍しく小さな島で生息している。世界遺産である「キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群」の一角の直ぐ隣で雄大な姿を見せている。

植物は約5億年前(オルドビス期)に地上へ進出し、次第に陸地を緑で覆っていった。植物の葉は、光エネルギーと水を利用して二酸化炭素から有機化合物を合成し(光合成)、その過程で水が分解されて酸素が放出される。しかし大気中の二酸化炭素濃度は、過去5億年の間一定であったわけではなく、大きな変化を遂げてきた。この変化は、植物の進化を促し、そしてその植物の進化は、他の陸上動物や昆虫の多様化に繋がっている。

「環境の変化」というと、その中でも植物は受け身の立場であるかのように思われがちだが、実はそうではないのだ。直近(とは言っても5億年)の地球の歴史の歩みは、植物が環境に影響を与え、その変化した環境が他の生物の進化に影響を及ぼす、すなわち、相互作用の結果としての歩みなのである。

でも、今、我々人類が環境に影響を与えているのはそんななまぬるいものではない。しかもその影響を与えた期間は、5億年では無くせいぜい100年である。地球の年齢である47億年と比較すると、それは一瞬である。そしてそれは、産業と言う名の、経済という名の、かつて地球上にあり得なかった鋭い牙が、一瞬で環境を根元からえぐり取るような深い影響であることに気づかなければならない。

生物は、過去5億年の間に5回の「大絶滅」を経験している。2億年前(三畳紀ジュラ紀)絶滅は、大量絶滅と呼ばれ、当時陸上を支配していた多くの生物が絶滅し、たまたま生き延びた恐竜たちの繁栄のきっかけとなり、そして恐竜は地上を支配した。しかしその恐竜も絶滅し、翼を持つことができた恐竜だけが、鳥類となって今も生き延びている。次の「大絶滅」は、いつ起こり、どの種が絶滅に瀕するのかはわからない。そしてそれは絶対に人間ではないと言い切ることは出来るのか。

5億年かけて、自然の環境変化のゆっくりとした相互作用により実にユニークな形に進化してきたアフリカの樹木を眺めなら、僕はそんなことを考えてしまう。

タンザニア、ムトワラ州のマングローブ
ここは世界遺産のかつて奴隷貿易施設跡地。 生物が海水から淡水(川、湖)、そして陸に進出していった動物側の生き証人の両生類や鮭なら、植物の生き証人はマングローブであろう。インド洋を臨み、汽水どころかほぼ海水だろうと思われるところで、美しい緑が差し色になっている。

ナミビアナミブ砂漠奇妙な植物

現地の人はボラボラと呼んでいたけど、どのような環境の変化でこのような形に変化したのか。形状から、アロエやサボテンのように葉や茎に水を蓄える性質を持つ多肉植物と思われるが、岡本太郎の前衛芸術彫刻作品かと思わせるような奇抜な美しさをもつ植物である。アフリカは、入場料を払わなくてもこのような奇抜なモノをみることができるのも魅力である。

葉が(ほとんど)無いのに、花が咲き乱れている木

花を咲かせて種子を作る植物の生殖成長では、光合成で得た栄養(炭水化物や窒素)が花芽形成や種子作りに使われる。ところがタンザニアのムトワラ州で見つけたこの木は、光合成をする葉がほとんど無いのに、美しい白い花が咲き乱れている。もし僕が植物学者だったら、これで3,4本は論文が書けるなと思った。

ナミビア、世界最古の砂漠で生きるアカシヤの木
ナミビア特有の赤い砂丘地帯のデッド・フレイ(死の沼)という白く乾いた粘土質の盆地と、そこに残る枯れたアカシアの木々日が昇るとドラマチックな陰影が生まれ非常に美しい

プロペラに乗せて種を飛ばす木、タンザニア、モロゴロ州にて

強大な幹と比べると、著しく細い枝から沢山のさや(マメ科の植物の種子を覆う殻のこと)をぶら下げる不思議な木。“さや”は枝から外れるとその形状からプロペラのように空中でくるくる回転し、母樹から(あるいは他の種子から)離れたところに着陸する。要は、貴重な水の奪い合いにならないように種を遠くに飛ばすのだ。すごい。この木は航空工学の頭脳を持ち合わせている。

唐辛子は、ネズミのような小動物(哺乳類)に種子を食べられないように辛くなったとされている。哺乳類に食べられると、種子は消化過程でダメージを受け発芽しないので哺乳類が嫌がる辛さを持たせた。鳥類は辛さを感じない。しかも食べた後に遠くに飛んで排泄し種を発芽させることができる。すごい。唐辛子は哺乳類と鳥類の消化器学の知識があるのだ。

一方人間(哺乳類)は、その辛さを求めて唐辛子を食べるようになった。僕も辛党なので、食べる前から蕎麦や鍋物に七味唐辛子をかけては妻に「味見もしないで!」とおこられる。だから人間に食べられるのを嫌う唐辛子は、いずれは甘く進化するかもしれないので、せめて今のうちに辛さを楽しもうと思う。

 

ダッカの休日

「ええっ!それはひどい」

僕はエジプトのシナイ半島で、北シナイで4年間、南シナイで4年間、合計8年間地下水調査プロジェクトに従事した。これは最初の北シナイのプロジェクトの4年間の終わり間際、「まだピラミッドには行ったことが無い」との僕の発言に驚いたエジプト政府の水資源研究所の研究員が大声で発した言葉である。翌日、彼は僕を強制的にピラミッドに連行した。

今日はここ、バングラデシュで金曜日である。イスラムの国は金曜日が休日である。今日は午前中に東京とオンライン会議、午後からはワインを飲みながらギターを弾いたり、ブログを書いたり。明日はゴルフに行く。バングラデシュには、例えばエジプトのピラミッドやカンボジアアンコールワットみたいな所謂世界的に有名な観光地は無い。仮にあったとしても、僕は休日にそこに観光にいくということはあまりしない。沢山の国で仕事をしたので、もちろん有名な観光地がある国も少しはあった。しかし、僕の出張中の休日の過ごし方はどこの国でも一緒だ。今回はそんな僕の休日を振り返ってみようと思う。

「休日」といえば1953年のオードリー・ヘプバーンの名作、「ローマの休日」である。ローマを舞台に、ヨーロッパの小国の王女とアメリカ人新聞記者のロマンティックで切なくも美しい休日を描いた名作だ。老科学技術者(僕のことです)が無駄に時間を過ごす「ダッカの休日」は、まさに「ローマの休日」と全てにおいて真逆に位置しているのではないだろうか。今日は「ダッカの休日」に、これまでの人生こんなにも沢山あった旅行先の休日を振り返ろうと思う。

エジプトのシナイ半島水資源調査団は、20名近いメンバーがいたが、僕は最年少のメンバーであった。エジプト到着後、3~4週間はカイロに滞在し、エジプト政府の関係機関への調査の説明や強力要請等様々な準備をしていた。僕以外のメンバーは、その間の休日に確実にピラミッド、スフィンクス、大エジプト博物館、等々ほとんどの名所には訪問していた。しかし僕は行かなかった。でも、僕も実は一カ所だけ行ったところがある。一人で行った。もちろん他のメンバーに「一緒に行きませんか?」と声をかけたが、「何それ?」と誰も興味を示さなかったから。それは「コプト正教会」である。

コプト教は、キリスト教の一つで、紀元60年ごろエジプトを中心として発展した教派である。原始キリスト教であるとも言われており、人として生まれたイエスの「神性」を強調するのが特徴だそうだ。北アフリカイスラム化した後もエジプトに暮らすキリスト教徒を、コプトと呼ぶ。僕は大学を卒業して初めの仕事は1980年代初期、パキスタンペシャワールにあるアフガニスタンの難民キャンプへの給水プロジェクトだった。

1979年のソ連軍侵攻以降、ペシャワールに、350万人のアフガニスタン難民キャンプが押し寄せた。僕はこれまで世界中の難民キャンプで仕事をしてきたが、ペシャワールの難民キャンプはまさに地獄絵地図さながらであった。数多くの乳幼児が、安全な水が無いために下痢の脱水症状で命を落としていた。他のブログでも書いたが、僕たちが(地下水を開発して安全な水が飲めるようにしたため結果的に)命を救われた子供達の多くが、タリバーンの兵士となった(であろう)事に対して僕は自分の気持ちを整理できずにいる。その頃から、僕は同じ一神教キリスト教イスラム教の対立に対して目を背けないようにしてきた。したがって、北アフリカイスラム化しても残り続けていたキリスト教徒の古い町、オールドカイロに僕はとても興味があった。でも、すこし本音を言うと、良い写真が撮れそうな予感がした町なのであった。

コプト正教会のあるオールドカイロの町並み。所々にイエスキリストの絵が掲げられている。明らかにイスラム教徒の町並みとは違う

オールドカイロの繁華街にあるカフェ。これもイスラム教徒の町とは大きく様子が違う。エジプトの人は砂糖たっぷりの紅茶とシーシャ(水たばこ)が大好きだ

オールドカイロのホテルの地下にあるバー
アラブ諸国の中で最も親米派であるエジプトのカイロでは、外資系のホテルにはもちろんバーもあるし、町にはヒジャブコーランの教えに基づき、女性の髪や身体を隠す目的のスカーフ)を着衣せず、欧米の女性と同様にジーンズやスカート姿の若い女性も沢山いる。しかし、いくらイスラム教でないからといって、これは絶対にありえない。このバーは、僕たちがエジプトに来てから1,2年後に当局の摘発を受け営業停止になったそうである。

自分は「あまのじゃく」なのであろうかと思ったこともある。でも、広辞苑であまのじゃくを調べると、「わざと人の言に逆らって、片意地を通す者 [広辞苑 第七版]」とある。ちょっと違うと思う。まず、そもそも僕は人と群れるのが好きではないのである。子供の頃は学校の修学旅行が苦痛だった。名所旧跡の前で記念写真を撮る、なんてことは子供の頃から恥ずかしいと思うようになっていた。お台場に自由の女神があるのも恥ずかしいと思う。「ニューヨークに金閣寺があったら貴方は記念写真を撮りますか?」と、お台場の自由の女神の前で記念写真を撮っている人に聞いてみたくなる。

ローマの休日」はチャンスが無かったが、「ロンドンの休日」や「パリの休日」は、2002年にエミレーツ航空が日本に就航するまで沢山あった。それまでは、東アフリカ(旧イギリス領の国々)に行くときはロンドン経由で、西アフリカ(旧フランス領の国々)はパリ経由で行っていた。乗り換えはどちらも丸一日以上の時間があり、ビジネスクラスの乗客にはそれぞれ市内のホテル、空港からの送迎、そして夕食まで用意されていた。同僚達は皆大はしゃぎで、バッキンガム宮殿やエッフェル塔に走った。僕はと言えば、ロンドンに3軒あるクラッシック・カー屋さん巡をして、ロンドン名物のパブで明るいうちからフィッシュ&チップスとビールである。

ジャガー、アストン・マーチン、オースチン、MG等のイギリス車だけでなく、フェラーリマセラティー等イタリア者も多く扱っている。戦前のモデルも多い。

僕の大好きなアルファロメオ
トレードマークのフロントグリルの盾が、今のような単純な逆三角形では無く、正に中世のヨーロッパの騎士が使っていた盾のよう。

赴任地での休日はどうだろうか。僕は、趣のある建築のホテルが好きである。シェラトンとかヒルトンでは無く、その国にあるちょっと趣のあるホテルである。日本だったら、老舗の旅館とかだろう。土日の二日間ではさすがにしないが、その国の三連休、四連休があるとそのようなホテルを探して宿泊する。でも、その地域を観光するということは無い。一日中ホテルにいて、本を読みながら昼はプールサイドでビール、夜はバーでウイスキーを飲む。至福の時間だ。そんな時間を与えてくれた思い出深いホテルの写真を見てみよう。


タンザニア北部、アリューシャ州のNgurdoto Mountain Lodge Hotel
アルーシャは北部でケニアと国境を接しており、タンザニアの主要なサファリスポットやアフリカ最高峰のキリマンジャロへの玄関口である。だったら(ここまで来たのなら)サファリでもキリマンジャロでも行けば良いのに・・・、という声が聞こえてきそう。でも僕は、こういうホテルで丸一日ゆったり過ごすのが好きなんだ。

今度はタンザニアの最南端、モザンビークと国境を接するムトワラ州のホテルだ。1800年代のザンジバルのスルタン(今でいうオマーン人)総督の宮殿を改築したホテル。ホテル内部もアラビアンな雰囲気がたっぷりだ。

タンザニア南部、ムトワラ州のOld Boma Hotel

Old Boma Hotelの中庭からインド洋を望む

ムトワラ州の奴隷貿易の基地跡
世界遺産の一部になっている。スルタンの総督もこの貿易のために宮殿を作ったとされる。

ナミビアエトーシャにある国立公園のホテル(ロッジ)。これは仕事で訪れたところであるが、ホテルがこの野生動物保護区のロッジしか無いので宿泊した。敷地があまりにも広く、ロッジは点在しているのでPlease follow me (私についてきて)と書かれた自転車に先導されてロッジまで来るまで行く。

Please follow me

突然のキリンとの遭遇
ロッジの朝、朝食を取りに行こうと思い部屋のドアを開けたらキリンと遭遇した。僕は5分ほど固まってから、カメラを取りに部屋に戻り撮影した。

ザンジバルの僕の大好だったホテル、今は無きNew Africa Hotel のサンセット・バーで寛ぐ筆者。これは記念写真ではない。隣の二人組のドイツ人の女性が、「私たちの国の経済に貢献してくれてありがとう」と突然僕に声をかけてきた。「 ? 」きょとんとしている僕に、彼女は僕が持っているカメラ(ライカ)を指さした。ああそうか、それでドイツ人だとわかったわけだが、経済貢献はちょっと大げさだ。彼女はさらに「私フィルムのカメラを使ったことが無いので、1枚撮らせて」と頼むので、僕が操作方法を教えて彼女は僕の写真を1枚撮影した。

ドイツ人が著者のカメラで撮影したNew Africa Hotel のサンセット・バーでくつろぐ著者

New Africa Hotel のサンセット・バーで僕が眺めていた海。この先にアフリカ大陸が広がる(これは著者による撮影)。

南米のチリには12ヶ月連続して滞在した。当然のことだが、クリスマスもお正月もチリで迎えた。中南米の諸国では、例えばシエスタ(昼寝)や夜遅く(10時以降)から始めるパーティーの様な飲食会等、スペインの習慣が根強く残っている。その一つでもあるが、クリスマスの1週間ぐらい前から年明けの1月10日ぐらいまでは誰も仕事をしない。お役所もまったく機能しない。したがって僕は、これは子供の頃から憧れていたイースター島でこの長い休みを過ごした。もちろんモアイ像も見に行ったが、記念写真は探しても無かった。

モアイ像の背後

裸で海で遊ぶイースター島の子供達の日常を、モアイ像の背後を入れて撮影してみた。こんな写真ぐらいしかアーカイブには無かった、モアイ像は。

何せ時間が沢山あったので、僕は島のレンタカー屋でスズキのジムニーを借りて、何日かかけてイースター島の周り気の向くまま1周した。海沿いの岩石には、所々、非常にインカ様式らしい彫刻が見つかる、しかも「まったく観光地では無いところで。僕はモアイ像よりもこのような小さな発見が嬉しかった。

エジプトのシナイ半島で、最初の北シナイの調査の4年間が終わり、次の南シナイの調査の4年間が終わってカイロに到着した調査団は、最後はそれぞれ好きなホテルに泊まろうということになった。カイロは、世界的な観光地である。ヒルトン、シェラトン、メリディアン、ソフィテル等の国際的な豪華なホテルはいくらでもあった。これでエジプトに来ることは無いだろうと思った僕は、ナイル川を挟んでカイロの反対側のギザ、ピラミッドで有名なギザにあるMarriott Mena Houseを選んだ。

Marriott Mena House
朝起きて、部屋のカーテンを開けたら現れるピラミッド。このぐらいの距離が僕にはちょうど良い、名所旧跡は。僕が8年間のエジプト生活で切った最後のシャッターだ。

 

地図に残らない仕事

「地図に残る仕事」というキャッチコピーは、大成建設株式会社が1991年から新聞広告のとして使い始め、土木建設業界のイメージ向上に貢献した。このコピーは土木建設業が社会に貢献していることを強く印象づけた名作として、広告業界では高く評価されているらしい。

土木とは、中国の古典にある「築土構木」、すなわち土を盛り木を組んで、人々が安寧に暮らせるようにする、から採ったとされている。日本でも江戸時代ぐらいまでは、“土”と”木“が建設に必要なElement(要素)だったのであろうことは容易に想像出来る。現代においては、土木のElementは「土」と「水」と「コンクリート」である。

日本での土木建設業界の技術者は、土木技師と呼ばれる。最近はどこの大学も特に理工系の学部や学科の名前がオシャレに変化して、学部名(学科名)を聞いただけでは一体何の学問を学ぶところかわからないが、僕が大学生の頃まではどこの大学でも土木は工学部の土木学科であり、そこを卒業した学生のほとんどは土木技師として建設会社に就職した。

英語では土木技師をシビルエンジニア (Civil engineer)という。Civilとは「市民の」という意味である。軍事のそれを指す「工兵」に対し、非軍事(civilian sector)でそれと同様のインフラストラクチャー(社会基盤:道路、橋梁、鉄道etc.)整備をする技術者という意味である。

一方、大学を卒業してからの僕は、「地図に残らない仕事」をし続けてきた。地下水の開発や管理が僕の仕事であったから。僕の学問は「地学(地質学)」であり、普通の大学ではいわゆる理学部に属する学科である。したがって地下のことを生業にしている僕たちは、シビルエンジニアとは呼ばれずGeologist(地質学者、あるいは地質技師)と呼ばれている。しかし僕たちの仕事もCivil(市民の)ためであり、そういう意味では僕もシビルエンジニアの端くれではないのだろうかと思うこともある。でも僕の仕事は“地図に残らない”のである。なぜならば地下の仕事だから。

地図には残らないが、僕の仕事も地上部に非常に小さな構造物を作ることもある。それは地下水の水位や水質を測定する観測井戸、あるいは河川流量や気象(特に雨量)を測定する計測装置である。地下水の水位や水質の変化は、資源(地下水)を適切に利用していく上で非常に重要な情報を我々に与えてくれる。今回は、地図には残らないが唯一地上部に残したそれらの小さな構造物の写真を見ながら、それでは僕は自分の人生で一体何を残せてきたのかを考えてみたい。

チリのアタカマ砂漠の地下水観測井戸。世界で一番乾燥している砂漠は、ここ南米のチリにあるアタカマ砂漠で、40年間1mmの降雨もなかった記録もある。 測定器は、地下の地下水面に浮かべているフロートの上下運動を紙にペンでグラフを描いている。この頃は1990年代の初め、アナログの時代の最後の頃だった。その様子をチェックしている僕の調査助手のガブリエラさん(左)。彼女は英語が出来るスペイン人Geologistで、1年間僕と一緒に全く水のないアタカマ砂漠で、通訳兼調査助手を務めてくれた。

エジプトのシナイ半島の砂漠に設置した地下水観測井戸。2,000m超の深さで、僕が携わった世界中の井戸のなかで一番深い。この頃は1990年代の中頃、そろそろデジタル化してきた。写真は専用のデジタル記録装置でデータを拾い上げているところ。

スリランカの半乾燥地帯としてしられるモナラガラ県に設置した地下水観測井戸。後ろの看板に日本の国旗とともに、日本政府の支援のプロジェクトであるという説明が書いてある。時代は2000年代初頭。この頃になると普通のパソコンでデータ収集ができるようになった。真ん中の白いシャツにネクタイの紳士は、当時の在スリランカ日本大使館の大使。

アフリカ南部、ナミビアカラハリ砂漠に設置した地下水観測井戸。ここは地下水が強い圧力を受けており、井戸を掘ればポンプを入れずとも自然に地下水が湧き上がっている(自噴井と呼ばれる)。そのため水位の上下運動の測定ではなく、圧力計で圧力の変化を測定している。写真は当時一緒に仕事をしていたドイツ人の技師達。

僕の博士論文は、国立国会図書館に保管されている。誤解の無いように説明するが、それは決して僕の博士論文が特に優れていたからではない。日本の学位規則第9条第2項の規定により、日本の大学は学位論文のうち博士論文は国立国会図書館に保管・閲覧させることが義務づけられているからである。これは僕が世の中に残せたものの一つかもしれない。しかしながら、一体何人の人が僕の博士論文を閲覧しに来たことか。正直なところ、多くの人が閲覧したとは到底思えない。ひょっとしたら皆無かもしれない。

タンザニア、ルブ川に設置した河川の水位計。柱の中は空洞で、河川水の表面にフロートを浮かせている。その上下運動で水位の変化を測定し、河川流量の計算に使う。

タンザニア、モロゴロ州に設置した小型の気象観測装置。
水資源の評価のためには、雨量のデータは極めて重要である

最も多い時は、僕は8つの学会に所属していたことがあり、そのうち2つは国際的な学会であった。プロジェクトの技術的な仕事だけをしていればよかった時代が過ぎ、会社の雑用が増えてきてからは少しずつ所属学会を減らしてきたが、今も2つの学会に所属している。それらの学会で、僕は合計20本の論文を書いた。そのうち10本が単著であり、3本が第一著者(共同研究のため複数の著者がいるが、そのなかで最も研究に貢献した人)、そして残り7本が共著である。単著と第一著者で13本は多いと思う。一般的な大学の先生と比べても、多くの論文を残すことができたと思う。今、インターネットで自分が書いた論文がどれだけ他の研究論文で引用されたかを調べる方法があるが、分野にもよるが比較的多く引用されている論文もある。これは、まあまあ、僕としては世の中に残せた方ではないかな。

タンザニアの経済的首都、ダル・エス・サラームに設置した地下水観測井戸。タンザニア人技術者への観測井戸からのデータ収集のトレーニングの様子を視察をしている僕(真ん中)

なぜ残せたか。

それは僕のブログ、「僕がこの道を歩むことを決めた地、ネパール」に詳しく書いてあるが、僕の大学時代の恩師による影響が大きい。僕は大学生時代の後半になってから、自分の指向は理工系ではなく、芸術系であることに気づいた。それ以来、僕は苦しい葛藤を続けながらも結局理工系の道に進んだ。しかし、美大を卒業してデザイン事務所を経営している友人は僕のその葛藤を見破り、芸術系の大学へ学士入学(3年生から編入すること)する道を作ってくれた。

僕は、道を変えようとしていること大学時代の恩師に伝えた。すると先生はポツリと言った。

「空博くんはもう造ったじゃないか、作品を」

そして僕が書いたプロジェクトの技術書類を、僕の前にポンと置いた。

「これは作品だよ、しかも芸術作品だよ」

そして椅子をくるっと反転させ机に戻ると、

「世界にはおまえを待っている国が沢山あるんだ。早く仕事に戻りなさい」

と背中で仰った。

僕はそれから、自分の従事したプロジェクトを心の中では「作品」と呼ぶようにした。そして論文も全て自分の「作品」だと思うようになった。だから沢山の「作品」を造った。

これも地図には残らないけれど、僕が世の中に残せたささやかなものの一つだと思うようにしている。そうでも思わないと、もうやり直すなんてことは絶対できない年齢になってしまったから。

俯瞰、過去をつくり変えるために

今回のザンジバルの出張(2025年4月16日~5月30日)、いつもよりちょっと長いから、フィルムは5~6本買っておこうと思いヨドバシカメラに行った僕は驚愕した。いつも使っている富士フイルムのプロビア(ポジフィルム)が、なんと1本5,500円に値上がりしていたのだ。僕は店員に2度も値段を聞き直してしまった。店員は申し訳なさそうにこの4月1日から値上げしたことを説明した。6本買ったら33,000円である。一昨年、3,960円に値上げしたときも非常にショックだったが、それでも僕は数本買ってザンジバルで撮影し「やっぱりフィルムだなあ」と関心したことを覚えている(拙稿:「曖昧であるということ」参照)。しかし、1本5,500円は強烈だ。さすがの僕も今回はフィルムを諦めて、しばらく使っていなかったデジタルカメラを持ってきた。しかし、今後フィルムが値下がりすることはあるのだろうか。もうこのまま僕はプロビアを使えないのだろうか。2009年にコダクロームの生産が終わったときは、僕はひどく悲しんだ。今回の値上げはその時の悲しみを僕に思い出させた。

という訳で、今回のブログはデジタルカメラで撮影した写真であることがいつもと違う。そしてもう少し違うところは、今までの僕のブログは、過去(何年~数十年前)に撮影した写真を現在(ブログを書いている時)に見直してそのときに考えたことや今その写真をみて想うこと書いてきたが、今回のブログは今撮った写真を今見て今想うことを書いている。デジタルカメラだとそれが出来るか・・・、とも想ったが、それでもやはり僕はフィルムの方が好きだ。だから、ネガフィルムにすればいいんだ。僕の大好きなブロガー、ふえふき羊さんの「カルシャゴンバ」の美しい写真をザンジバルに来てから見て、僕はとても勇気づけられた。

今回の出張で僕が宿泊しているホテルは、ストーンタウンのほぼ中心に位置しており、他の建物と比べて比較的高層(たかだか5階建てだが)なので、レストランのある屋上にいくとストーンタウンを俯瞰できる。ストーンタウンの一番の魅力は地上の細い迷路のようなに不規則に展開する道であり、一人で歩きながら一体僕をどこに連れて行ってくれるんだろうといつも心が躍る。

ザンジバル、ストーンタウンの迷路のような町並み。ストーンタウンの一番の魅力、それはこの石畳の迷路。この後の写真は、僕が今泊まっているホテルのルーフトップから俯瞰している写真なので是非比べて欲しい。2023年、1本3,960円の富士フィルムのプロビアで撮影。
美しい。

しかし今回このホテルに宿泊し、少し高いところからストーンタウンを俯瞰するとまたひと味違うこの街の魅力を感じることができる。「俯瞰」とは、高い所から見おろすこと、および広い視野をもって巨視的に物事を捉えることの意味がある。僕はGeologistなので仕事はいつもプロジェクト(調査)の対象地域を俯瞰するところから始まる。俯瞰するには、衛星写真や飛行機による空中写真や、最近ではドローンを使った高度の低い空中写真をつかったりする。地形は僕達Geologistにとても沢山の情報を伝えてくれる。僕たちは地形を俯瞰して、地形毎に調査方法や深度を決めていく。それ(俯瞰)ができないと、闇雲に調査をすることになる。

僕が延べ8年間も地下水の調査に携わったエジプトのシナイ半島の衛星画像

今回は、ストーンタウンを高いところから俯瞰しながら、ここ数年にわたりぼんやりと僕が考えてることを書いていこうと思う。

ヒンドゥー教のお寺とザンジバルの港。ストーンタウンの迷路の道と建物は石造りで重厚だが、屋根は風で飛んでしまいそうな貧弱な赤いトタンだ。これが大きなギャップだ。

人間は皆、年齢が上がるにつれて時間の流れを早く感じるようになる。19世紀のフランスの哲学者、ポール・ジャネーは生涯のある時期に感じる時間の長さが、年齢の逆数に比例する、つまり年齢に反比例するという心理的な法則を唱えた。それは、年齢を重ねるにつれて、自分の人生における1年の比率が小さくなるからである。1歳児がそれを感じているとは思えないが、例を挙げると、1歳の時の1年は人生の1/1に相当するが、50歳の時の1年は人生の1/50に相当する。

ストーンタウンのオールド・フォート。この堅固な要塞は、1600年代後半にポルトガルの艦隊からの攻撃を防ぐためにオマーン人によって築かれた。地上からでは高い壁に覆われて何も見えないが、高いところから俯瞰すると中の様子がわかる。当然のことだが。

さて、僕の場合の1年はそうすると1/64なので、もう最近の1年は早い。すごく早い。あっという間に季節は巡る。しかしその現象を僕はネガティブに捉えているかというと、実はそうでもない。それは自分の人生を俯瞰できるようになったからだと思う。

教会とモスク(正面がモスク、左奥が境界、右奥がまたモスク)。ザンジバルではキリスト教徒もイスラム教徒も、自然に、平和に共存している。

過去が未来を作ると考えるのが一般的だが、僕は現在が、あるいは未来が、過去を作ることもできると考えている。中国の諺に「人間万事塞翁が馬」というのがある。「ある老人の馬が逃げたが、後になってその馬が別の名馬を連れて戻ってきた。しかし老人の息子はその名馬から落ちて骨折してしまう。ところが、その骨折により息子は戦争に兵役することを免れ命が助かった」という話である。これは、過去に起きた悪い結果は、未来から振り返ると実は悪くなかったと思えることもできるということである。あるいは、未来(今)に起きた出来事によって、過去に起きた出来事に対する見方が変わると言うことである。これを広義に捉え、僕は「過去を作り変えることが出来る」と考えることが出来るようになった。これは、自分の人生を俯瞰できるようになった結果であることは間違いないと思う。

セントジョセフ・ローマカトリック大聖堂(1893年建築)。
地上から見るのとはまた別の迫力を持って僕の目に飛び込んでくる。

記憶の中の過去、僕が今、息をしている現在。これらはすべて繋がってはいるはずだ。しかし、今の自分が生きて生活をしている環境から過去を振り返ると、それは違うものに置き換わる。その時(過去)の出来事の意味や価値は、後(未来)になってみないとわからないのだ。

ホテルのルーフトップ・バー(左側)でビールを飲みながら大聖堂を眺める時間が好きだ。まるで壁にはめ込まれた大きな絵画のよう。大聖堂のこの圧倒的な存在感が素晴らしい。

僕は今まで、数え切れないほどの失敗を重ねてきた。間違った道を選んだことも沢山あった。いや、むしろ成功した事や正しい道を選べたことの方が圧倒的に少ないと言ってもいい。無駄なことも沢山してきた。もう、無駄の塊みたいな男である。しかし今、この歳になって人生を俯瞰すると、今までの失敗を悔やむ必要もないと思えてくる。そして人生の失敗や浮き沈みを受け入れる心の余裕をもって、そんなに長くはないと思うが、これから先の人生の出来事にも柔軟に対応することが重要なのかもしれない。

ストーンタウンのホテルの屋上から町並みを俯瞰しながら、そんなことを考えている。



ファッションとしての民族衣装

僕が小さな子供の頃、電車に乗ると、長椅子の上で着物を着て正座で座っているおばあさんをよく見かけた。まるで置物のように、ちょこんと電車の長椅子の上で正座しているおばあさん。それは昭和40年代ぐらいまでだったと思う。

今、日本で、僕が朝起きて電車に乗って会社に行き、オフィスで一日仕事をして、あるいは他社やクライアントと打合せに出かけ、そして電車に乗って家に帰る長い一日で、着物を着ている人と出会うことはまず無い。

しかし、僕が仕事で海外出張に行くとかなりの頻度で、その国の民族衣装を身につけた人と遭遇する。そしてそれは、都市部より地方部、そして男性よりも女性が圧倒的に多い。都市部より地方部の方が民族衣装を身につける人が多いのは、なんとなくだが理解できる。ひとつは、民族意識の問題だと思う。都市部は、どこの国も経済的にも社会的にも教育的にも国際化がある程度進んでしまっているので、自分たちの民族文化を意識する人は減る一方だと思う。もう一つは経済的、文化的な違いであろう。例えばアフリカではどこの国でも、デパートやスーパーのような商業施設は都市部にしかない。したがって洋装は都市部でしか手に入らない。また、地方部のほとんどの農業従事者たちにはそのような服は経済的にも手の届く価格ではなく、そもそも彼らの仕事や生活には洋装は決して便利ではない。

禁断の果実を食べてしまったアダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようなった。そのイチジクの葉が6,000年かけて進化し続けた服の利用のされ方と文化について今回は考えてみたい。

エジプト・シナイ半島のベトウィンの女性
ベトウィンはアラビア語で「砂漠の住人」を意味する言葉で、アラブ系の遊牧民を指す。シナイ半島の住民の多くはベドウィンである。カイロでこのような民族衣装を着た女性を見ることは少ないが、これも一つの都市部と地方部の違いであると思われる。経済的な問題ではない。

タンザニアドドマ州のマサイ族
マサイの民族衣装マサイシュカを羽織歩くマサイ族の男性。この赤い(モノクロームの写真ですみません)マサイシュカは、正確に言えば服と言うより1枚の布である。これを様々な形で羽織る。マサイ族が暮らすサバンナは、朝晩の気温変化が激しい。マサイシュカはその気温変化に対応できる素材でつくられているという。ファッション性と実用性を兼ねそなえた布である。マサイシュカは欧州のファッション界にも影響を与えた。パリの2012年春夏コレクションで、ルイビトンは「マサイ・ライン」というマサイシュカを取り入れたデザインを発表した。僕は個人的にアフリカで一番かっこいい民族衣装だと思っている。サバンナの土にこの赤いマサイシュカがすごく映えるのです。

ベトウィンとマサイ族の写真を見てきたが、これはもう正真正銘の民族の違いであり、自分たちの文化を継承し、そして繋いでいくために民族衣装を着ているのだと思う。すなわち、地方部の方が民族意識が高く残っているのだと思う。カイロでベトウィンを見ることもあるが、カイロでも彼らはこの服装である。ダル・エス・サラームでもマサイ族は見かけることがあるが、彼らはダル・エス・サラームでもこの服装である。

さて、もう一つの僕の仮説、経済的、文化的な違いを見てみよう。

バングラデシュ・ジョソールの農村地域の標準的な一家
大人も子供も男も女も、身につけているのは民族衣装である。経済的な理由もあるとは思うが、そもそもこの服装が彼らの仕事や生活から育まれた文化なのだと思う。

ングラデシュ・マニックガンジ県の羊飼いの女性
バングラデシュ女性の伝統的な衣装「パンジャブドレス」をまとい、羊を自由自在に操る女性。このパンジャブドレスは、かなり広域でインドの北部、そしてパキスタンでも広く使われている。

もう一つの傾向、民族衣装の着衣率が男性よりも女性が圧倒的に多いのはなぜであろうか。電車の長椅子に、着物を着た置物のおばあさんがいた時代でも、男性で着物を着ている人はほとんどいなかったと思う。ということは、これは日本でも言える傾向なのであろうか。


ザンジバル・ストーンタウン、焼き鳥を買う女性
女性はザンジバル独特のアラブ様式の民族衣装をまとっているが、男性たちはジーンズとTシャツ姿である。

エチオピアの女性と子供たち
女性はエチオピアの民族衣装だが、男の子たちはシャツ、またはカットソー。

日本の支援で出来た手押しポンプ付きの井戸に給水に集まる女性たち
女性は皆タンザニア独特の生地で作られた衣装だが、左の男の子は普通のシャツである。

なぜだろうか、なぜ民族衣装の着衣率が男性よりも女性の方が高いのであろうか。その“回答”とまではいかないが、僕がその仮説を立てられたのがバングラデシュだった。

バングラデシュ・ジョソールで活動する海外青年協力隊
写真右の女性は日本人の女性で、この地域で水・衛生分野の活動をしていた。彼女はいつもパンジャブドレスにイスラム系のスカーフを羽織って活動している。なかなかかっこいい。

バングラデシュは今でも世界最貧国の一つで、日本を初め多くのドナーや国際機関が開発の支援を続けている。僕も含め、このような国際協力に関係する外国人が多く宿泊しているホテルに行く、あるいは他ドナーが開催するセミナーに行くと、沢山の僕の世界中の同業者達と出会うことができる。そして昔と違って、今は同業者さん達でも女性が多い。そしてその女性達は、日本人も、欧米人もほぼ(9割程度)パンジャブドレス姿なのだ。これは、他のアジア、アフリカの諸国では見られない光景である。

今回のブログ、最後の写真は、技術研修のため来日した僕の現行のプロジェクトのカウンターパートであるザンジバル政府の水資源関係の機関の技術系職員の写真である。休日に僕が浅草に連れて行ってあげた。

着物の日本人女性とザンジバル
この写真見ても男性(一番右)は洋装であることがわかる。

僕は外国からのお客さんを、京都や浅草に案内することが多い。京都や浅草に行くとこのような着物を着た若い女性が多い。しかし、男性は見かけない。もちろんこれは彼女たちも普段から着物を着ているのではなく、観光をより楽しくするために、多分、着物レンタルのようなお店もあって、着物を楽しんでいるだと思う。ザンジバルの僕の友人達は、この赤い着物の日本人女性をめざとく見つけ、とても綺麗だから一緒に写真を撮って欲しいと頼んでくれとせがまれて撮った一枚である。

そうだ、そういえば成人式。これも女性は振り袖の着物姿、男性はスーツが一般的ではないだろうか。そして卒業式、3月のそのシーズンになると、袴姿の女子大生が沢山見られるが、男子学生はスーツだ。

女性は、民族衣装をファッションとして楽しんでいるだと思う。そしてそれはとても素晴らしいと思う。日本の男性諸君、負けてはいられない。世界中のシャレ男が注目するイタリアのメンズ・ウェア見本市「ピッティウオモ」で発表されたイタリア製のスーツを着ていても、欧米人はちっとも「かっこいい!」とは思ってくれない。むしろ日本男児は「作務衣」や「着流し」姿の方が、外国人から見るとかっこいいのだ。

 

植民地。文化が融合できた国と出来なかった国

僕は一緒に仕事をするアフリカの人に歳を聞かれると、「あなたの国と同じ歳ですよ」と答えるようにしている。皆、とても喜んでくれる。アフリカの国々のほとんどが1960年、つまり僕の生まれた歳に宗主国(イギリス、フランス等)から独立している。まれに1959年、あるいは1961年に独立した国もあるが、まあほとんど僕と同じ歳だ。

ポルトガルのロカ岬はユーラシア大陸の最西端である。詩人ルイス・デ・カモンイスはこの岬を「ここに地終わり、海始まる」と詠んだ。15世紀、ヨーロッパ最西端にあるポルトガルは、自国の発展のため大西洋に乗り出しアフリカの探検を開始した。この船出は、ポルトガルにとって輝かしい第一歩であったが、アフリカ、中南米、アジアの国々にとっては「植民地化」という悪夢の始まりになった。

16世紀になると、ヨーロッパ諸国は世界の8割を支配し、17世紀にはオランダ・イギリス・フランスの植民地戦争に発展し、18世紀から20世紀にかけては帝国主義による植民地拡大が始まり、日本も植民地獲得に参入した。しかし、20世紀に入るとヨーロッパ諸国は2度の世界大戦により軍事的・経済的に弱体化し、植民地独立運動が活発化した。そして1960年、新しいアフリカの国々は僕と一緒に産声を上げたのである。

植民地化とは、ある国がほかの国や地域を政治的・経済的に支配し、社会的・人権的抑圧する。当然のように文化への影響も大きい。今回のブログではこの“文化への影響”を写真(もちろんフィルム)で見ていこうと思う。場所はイギリスの旧植民地だったタンザニアの経済的首都、ダル・エス・サラーム(最後の1枚はザンジバル)だ。

ダル・エス・サラーム中心部の角地に建つ、イギリス時代の建物を利用した生地屋さん。その名もLight Corner Ltd(明るい街角 株式会社)。服地だけで無く、色とりどりの子供から大人まで既製服も売っている

ダル・エス・サラーム港の近くにある協会。これもイギリス時代の建築だが、今でもきれいに残っており、協会としてきちんと機能している

ダル・エス・サラームの中心部にある協会。2つ前の写真のLight Corner Ltdのすぐ近く。写っているたくさんの車のすべてが日本から来た中古車。美しい古いイギリスの建築と日本車は全然合わない。日本の車のデザインは1980年以降個性を失い、どれも同じように見える(個人の感想です)

これは僕がダル・エス・サラームで一番好きな建築、PUPARELIA HOUSE。おそらく当時タンザニアを統治していた将官クラスのイギリス人の住宅だったのだと思う

日本が植民地化した国は、台湾、韓国、満州(中国)である。また日本は、第二次世界大戦中に香港、シンガポールインドネシア、フィリピン、ソロモン諸島ミャンマーを占領した。占領下の地域には親日政権を樹立させ、「大東亜共栄圏」を掲げた。

タンザニアにおけるイギリスの植民地化の文化への影響は、もちろんこんな建築物の写真を見ていてもわからない。ただ、僕はタンザニアの人と一緒に働いていて、あるいは西アフリカの旧フランス植民地の人たちと仕事をしていて、イギリスやフランスに対する不満を耳にすることはこれまで無かった。むしろ旧宗主国に対して非常に親近感を持っていると感じることが多かった。

例えば、ボール一つあればどこでも出来るサッカーは、どのアフリカの国でもナショナル・スポーツだ。ほとんどの子供たちはサッカーの選手になりたいと思っている。そして出来れば、イギリス、フランスのサッカー・チームへと。ワールドカップを観戦していると、自分たちの旧宗主国の勝利を驚喜狂乱して喜ぶ。

このような姿を見ていると、なぜ中国と日本、韓国と日本の関係はそうならなかったのだろうかと僕は思ってしまう。

僕のホテルの部屋のテラスから見えるダル・エス・サラーム港
ダル・エス・サラーム(Dar es Salaam)は、アラビア語で「平和の家」を意味する。古くからイスラムの影響をうけ,インド洋岸の港として栄えた。アフリカは内陸国が多いため、物流をこの港に依存している国は多い。イギリスもおそらくこの良港を目につけタンザニアを植民地としたのだと思う。休日はゴルフから帰ると、このテラスでビールを飲みながら港を眺めていた。その時間が好きだった。

圧巻のセント・ジョゼフズ大聖堂
スワヒリ文化は、東アフリカの島嶼部で栄えた文化で、アラブ・ペルシア系の外来文化と土着のアフリカ農耕文化が融合して形成された。ザンジバルイスラム教徒の国だが、キリスト教徒とも自然に調和している
(拙攻ブログ「想像と調和」参照)

ところで皆さんは、SDGs (Sustainable Development Goals)、つまり「持続可能な開発目標」のことはご存じだろうか。SDGsは、2015年に国連サミットにおいて、加盟国である193ヵ国の全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標である。その10番目の目標、すなわちGoal 10は、「人や国の不公平をなくそう」である。

植民地化はなくなった現在も、実はかつてないほど多くの国で格差や不公平が広がっている。僕は40年以上まえから、その格差や不公平の末端をたくさん見てきた。

国連の分析によると、2021年には、世界のもっとも豊かな10%の人が、世界全体の富の約76%を持っているとされている。地球って、本当に不思議な惑星だと思う。