奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

僕たちは屈しない

僕の父親は大の新しいモノ好きで、あらゆる家電製品、自家用車(当時はそう呼ばれており、後部トランクには「自家用」というステッカーが貼られていた)が発売されると直ぐに新しいモノを購入していた。僕の少年時代、すなわち1960年代は、家電製品や車が飛躍的に発展し、庶民に普及していった時代だった。

カラーテレビはその頃、家電製品の花形だったのではないだろうか。まだカラー放送の番組がほとんどない頃、既に僕の家にはカラーテレビがあった。新聞のテレビ欄には、カラー放送の番組には番組タイトルの横に誇らしげに「カラー」と書いてあった。少女漫画「ひみつのアッコちゃん」もその数少ないカラー番組のひとつだった。その時間が来ると、近所の人がうちにカラーテレビを見に来て、アッコちゃんが始まると「うわー、綺麗ねぇ!」と歓声が上がった。

当時の僕は小学校の高学年生。学校が終わり家に帰ると、自分の部屋にランドセルを放り投げ、居間のかなりのスペースを占領する父の自慢のステレオセット(当時は恐ろしく大きくて家具調だった)のスピーカーの間に鎮座する神々しいテレビ(これも家具調で、テーブルのように四本の足が生えていた)のスイッチを入れ、アッコちゃんと遊ぶのが日課だった。

ところがあの日は完全に様子が違っていた。テレビのスイッチを入れると、鎖で吊された巨大な鉄の玉が建物に打ち付けられる白黒の画像が延々と映し出されていた。チャンネルをひねっても(当時のテレビは大きなダイアルを摘まんで、ガチャガチャと回してチャンネルを変えていた)、どの放送局も“巨大な鉄の玉”と建物を取り囲む緊迫した大勢の警官の映像しか映っていない。

浅間山荘事件である。

居間の隣は当時すでに大学生だった姉の部屋だった。姉の部屋からはジミ・ヘンドリックスの雷のようなギターのリフが(あるいはジャニス・ジョップリンの天地を引き裂く叫び声だったかもしれない)、爆音で流れくる。僕の頭の中で、浅間山荘に打ち付けられる鉄の玉とジミのギターが妙に同調した。僕のティーンエイジャーの100%を占める、激動の1970年代の始まりだった。

「広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動」

これは、日本の警察庁組織令第三十九条によるテロリズムの定義である。そもそも、テロリズム (Terrorism) とは恐怖 (Terror) から派生した言葉であり、言葉としての定着は、フランス革命の際の「恐怖政治」をきっかけとしている。ただし、これは権力者が恐怖をもって自国民を統治する形態である。政治や宗教の争いに発するテロは、有史以来、洋の東西を問わず存在した。しかし、その様子が変わってきたのは1970年代からだと僕は感じている。アメリカのテロ研究家、クレア・スターリングは、「国際テロ」の登場を1968年のPFLPパレスチナ解放人民戦線)のローマ発エルアル航空機ハイジャックとし、国際テロが猖獗をきわめた1970年代を「恐怖の10年」と名付けた。極左の日本の若者も、1970年代には多くのハイジャックやテロ事件に関係していった。世界に潜在するテロの炎は消えること無く、その後は同じ一神教イスラム教、キリスト教ユダヤ教)同士の憎しみへと再び燃え広がり、2001年の911アメリカ同時多発テロ事件にまで発展し、現在も続いている。

2016年7月2日の日本の朝、僕の睡眠はバングラデシュダッカにいる同僚からの国際電話によって中断された。昨夜、ダッカ市内にある外国人に人気のレストランでテロリストの襲撃があり、日本人を含む多くの外国人が殺害されたとのことであった。日本大使館からは、全員外出禁止令が出たとの連絡だった。

「プロジェクト、中断になってしまうかもしれませんね」

同僚は弱々しくつぶやいた。ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件(2016年7月1日)である。7人の武装テロリストにより、日本人7名を含む28名の外国人が殺害された。日本人の7名は、全員我々と同業者であり、やはりバングラデシュの開発プロジェクトを担っていたエンジニアであった。

実はその一月ほど前、すなわち2016年の5月の末、僕はダッカデング熱を発症してしまった。デング熱は、蚊に刺されることによって感染する疾患で、急激な発熱で発症し、発疹、頭痛、骨関節痛、嘔気・嘔吐を伴い、血中の血小板が極端に減少する怖い病気である。血小板は出血を止める役割があり、健康な体では血小板数は15万~30万/μL(マイクロリットル)あるところを、僕は4千/μL以下に減少し、体内の至る所で出血が止まらなくなっていた。ちなみに血小板が1万/μL以下になると致死レベルとされている。僕はダッカの病院で入院・治療したがとても危険なレベルに達したので、保険会社が手配したタイのドクタージェットで迎えに来てもらい、バンコクの大病院に移送され入院した。同僚からダッカのテロ事件を知らせる電話を受けたときは、バンコクの病院を退院し、日本に帰国して自宅で静養していた2日目だった。これは(僕のデング熱)これで、僕にとっては生死をさまよった非常に大変な出来事であったが、ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件はもっと大変な事件であった。僕がデング熱を発症していなければ、僕たちもあの日あのレストランで食事をしていたかもしれない。

同僚からの電話の数日後、バングラデシュの日本政府による援助のプロジェクトは全て中止になり、僕の同僚を含む沢山の日本人技師は帰国した。それから約10ヶ月、プロジェクトは再開することは無く、僕は大学を卒業して以来最も長く日本にいる日々を経験した。そして長い沈黙の後、政府はいよいよプロジェクトを再開を決定した。しかしそれには、5つの条件、すなわち、1)渡航前に対テロ訓練を受けること、2)一回の渡航は1プロジェクト2名までにすること、3)1渡航の滞在は最大で2週間までにすること、4)日本政府によって安全が確認された指定のホテルに宿泊すること、5)外出はバングラデシュ武装警官のエスコートのもと行うこと、がついての渡航だった。

僕たちのプロジェクトは、当時のバングラデシュでは非常に大きく、プロジェクトメンバーも合計で18名いた。その中から渡航する2名、それはプロジェクト・マネージャーの僕と、もう一人、それを決める葛藤、対テロ訓練・・・、たった2週間で何ができる?渡航前の怒濤の準備で一ヶ月があっという間に過ぎ、僕はバングラデシュに戻った。それから約5年間、僕は多くの渡航制限を引きずりながら、プロジェクトを運営してきた。

テロの特性として、かつては弱者の側に置かれた人々の対抗手段という側面があった。「ある者にとってのテロリストは他の者にとっては自由の戦士である」(one man’s terrorist is another man’s freedom fighter)というテロについての有名な格言もある。古くは、初代内閣総理大臣伊藤博文を暗殺した安重根は、もちろん日本ではテロリストと見なされているものの、韓国では独立の英雄と位置づけられている記念館が開設され、切手にもなった。しかしこれは、テロ事件に多く存在する二面性を意識することが、暴力性にのみ目が行きがちになる国際テロの解決を進める上で不可欠であるという意味であり、もちろん弱者と言えども、暴力で対抗することに対する正当性は何らない。ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件、911アメリ同時多発テロに、一体何の正義があったのか。ダッカ事件の犯人のうち数名は、バングラデシュでは富裕層の子息で、有名大学の学生だった。それがアルカイダの流れをくむイスラム原理主義者に洗脳されて起こした事件だった。正義でもなく、弱者でもない。繰り返すが、正義があれば、弱者であれば、暴力で主張をして良いという大義はあり得ない。

地球上の生物で、言語を持つのは人間だけである。すなわち我々人間は、地球上で最も高度に自分の意思を相手に伝え、そして相手の考えを詳細に聞くことができる生物なのである。しかし、我々人間は、地球上の生物で、唯一お互いを殺し合う生物でもある。これは、絶対におかしい。単純に考えてもおかしい。

僕はバングラデシュのプロジェクトの5年間、厳しい渡航制限と多くの制約の中、仕事の質を落とすこと無く淡々と仕事をこなし続けた。それが、僕たちエンジニアの、テロリスト達に対する返事なのだ。我々は、決して屈しない。

渡航前の対テロ訓練の様子。銃声、爆発音が聞こえたら直ちに取る姿勢の練習をしている。日本に、そんな訓練を提供する会社があることすらも僕は知らなかった。

厳しい渡航制限かでの現地調査。武装警官が常に僕たちを取り囲み、村人からも遠ざける。本当は、村の人たちの声を聞きたかったのに。

車での移動は、前と後で武装警官の車両に挟まれて移動する。写真は、僕を乗せた車の前の警護車両をフロント・ガラス越しに撮ったもの。我々を守ろうとするバングラデシュ政府の姿勢は嬉しいが、サイレンを鳴らし、他の車両に道を譲らせながら猛スピードで走るのは・・・、逆に目立ってしまうのではと心配した。