奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

僕がこの道を歩むことを決めた地、ネパール

「空博くん、ひょっとしたら違う道を歩んでない?」

大学を卒業して、水資源のエンジニアリング会社に就職して、直ぐに途上国の水資源開発のプロジェクトに従事して飛び回り始めた頃、美大を卒業して仲間とデザイン事務所をやっていた友達にそう言われたことがある。彼女がなんでそんなことを言ったのか、僕はその理由はわかっていた。

実は大学に入学して2年目ぐらいから、僕は「これは違うのでは・・・」と思い始めていた。その思いは時が経つにつれ強くなり、それを思うと夜も眠れなくなった。僕は子供の時から、父の書斎にある膨大な蔵書や図書館の本を読みあさっては、一人でぼんやり空想をしていた。殆どは大正から昭和の文豪たちの作品だが、当然子供が読むような本ではない。いつもぼんやりしていたから、大学で何を勉強し、どういう仕事に就つくかということは、これっぽっちも考えたことが無かった。理系の成績がよかったのは、男の子の一般的な特徴であり、僕自身も特に好んで勉強していたわけでもなかった。

一方、絵を描くと、何かを造ると、必ず学校が市の展覧会や何かに僕の作品を送り、不思議と必ず賞をもらった。全国的な賞をもらったことも沢山あった。絵が好きだった訳ではない。もちろん習ったこともない。絵を描きながら、粘土をこねながら、こんなつまらないことはとっとと終わりにして、早く昨日の続きの本を読みたいと思っていた。中学校の卒業式では、式が終わって教室に帰る沢山の生徒をかき分け僕を追ってきた美術の先生が僕の両肩を強くつかみ、「空博くん、高校を卒業したらきっと美大に行くのよ」と僕の体を揺さぶった。それが最後であった。僕の芸術との関わりは。

高校生になると僕はますます本を読みあさり、そして空想に耽る毎日であった。そしてなんと大学の2年生になった頃から、初めて学問と職業の関係を考え始め、胸を掻きむしって悩み始めた。それはあまりにも遅すぎた。と、その当時は考えていたので、僕は胸を掻きむしりながら大学を卒業して、傷だらけの胸を隠すように白いシャツにスーツを着て、エンジニアリング会社の入社式に向かったのだった。

デザイン事務所の友達に、「違う道」と指摘されてから、僕はまた悩み始めた。タイの村々で、パキスタンアフガニスタン難民キャンプ(ペシャワール)で、僕は夜も眠らず胸を掻きむしった。デザイン事務所の友達は、当時芸術系の大学院にも籍を置いていた。そして僕にはだまって、僕の造ったいくつかのモノ ― それは彼女に楚々のかせられてチョコチョコっと僕が造ったモノ(忘れたが、なんかの図柄(絵では無かったと思う)だったと思う)― を大学院に先生にも見せ、僕をその大学の学士入学で受験することを強く勧めた。その頃、僕はネパールのプロジェクトに従事していた。一時帰国をして直ぐに受験の手続きを済ませた。ところがどうだ、受験の手続きが終わったら、途端に今の仕事を辞めることに対する不安に襲われた。そんな時期に、僕はカトマンズの外れにある、欧米系のバックパッカー集まる地域で一人の日本人と出会った。その人は当時40歳ぐらいだったと思う。誰でも知っている大手の電機メーカーの技術職だったが、カトマンズからロンドンまで1年かけてバスで陸路横断するツアーに参加するため会社を辞めたとのことだった。

「でも……、その後どうするんですか?」

僕が聞くと、「特に考えてない」と清々しい笑顔で答えた。

僕は将来の不安ばかり考えて、リスクを取らず、挑戦もせず、失敗しないことだけを選んで歩いている自分に対して、ひどく失望した。その日から僕は、芸術系の大学を受験するかとか、今の仕事を辞めるべきかとか、続けようかとか、そういう悩みではなく、極度の自己嫌悪に陥ってしまった。

話は少し前後するが、プロジェクトもその頃ひどい混迷に陥っていた。それは、プロジェクトのデザインにそもそも問題があり、ネパール政府の要望ともクライアント(ドナー)の思惑とも外れていた。このまま計画通りに勧めると、恐ろしいことが起きることは明白だった。Eメールなんて無い時代だった。僕は大学時代の恩師にファックスで状況を説明し、そして技術的に方向修正する方法を考え、先生にアドバイスを求めた。先生は大学に来る前、国連のプロジェクトのリーダーとして、ネパールの地下水開発に10年間も従事していたのでネパールの自然条件は熟知していた。そして帰国の度に先生と会って、議論を続けていた。その議論も終わりが近づき解決策が見えた頃、僕はカトマンズからロンドン横断旅行の日本人に遭遇し、自己嫌悪に陥ったのだった。

僕は先生にすべて話した。芸術系の学部の学士入学試験の手続きをしていること。この仕事を辞めるかもしれないこと。

長い沈黙の後、先生はポツリと言った。

「空博くんはもう造ったじゃないか、作品を」

そして僕が書いたネパールのプロジェクトの修正計画の書類を、僕の前にポンと置いた。

「これは作品だよ、しかも素晴らしい芸術作品だよ」

そして椅子をくるっと反転させ机に戻ると、「世界にはおまえを待っている国が沢山あるんだ。早く仕事に戻りなさい」と背中で仰った。

この一言が、今の僕を造った。そしてそれはネパールだった。僕はそれから、自分の従事したプロジェクトを心の中では「作品」と呼ぶようにした。もうずいぶん沢山の作品を造った。天国にいらっしゃる先生、僕はもうそろそろ先生の作品になれたでしょうか。

カトマンズからロンドンに陸路で横断するバス。出発の日、僕は見送りにいった。走り始めたこのバスの後ろ姿を見たときから、僕は極度の自己嫌悪に陥った。

今の僕を造ったのは、先生だけじゃなかった。
ネパールの、アフリカの子供たちも先生と一緒になって僕を造ってくれた。

そして何よりも、この神々しいネパールの寺院と町並み。
長い歴史の中で築かれた素晴らしい芸術と文化。
こんな素晴らしい作品を世界中で見ることができるこの仕事に、僕は感謝している
(余計なことですが、昔のネガフィルムって、こんな重厚な色のり絵が撮れるんですね。この頃はニコンFE2かF3、しかしネガフィルムは何を使っていたか、思い出せない)