1971年に独立したバングラデシュは,不衛生な表流水(河川、表層の溜まり水etc.,)の飲料による水因性疾患(下痢等)が蔓延していた。国際機関(国連、WHO等)は、水への困窮度を示す指標の1つとして「乳幼児(5歳未満の子供)死亡率」を用いる。単位は人/千人であり、1,000人当たりの出生乳幼児のうち何人が死亡したかで表す。世界には水が飲めなくて、あるいは不衛生な水の飲料により死に至る乳幼児は非常に多いため、乳幼児死亡率は水への困窮度のバロメーターになる。ちなみに現在(2021年)の乳幼児死亡率第1位の国はシェラレオネ(アフリカ)で78.3人/千人、日本は192位で1.7人/千人である。日本の1.7人は、“下痢”で亡くなったとは思えないが。独立当時(1971年)のバングラデシュの乳幼児死亡率は、148.2人/千人である。もちろん時代が違うので単純に比較は出来ないが、非常に高い数値である。
1971年の僕は小学校の5年生であった。年の離れた姉や従兄弟の影響で僕はロック少年になっており、1970年にジョージ・ハリスンがリリースした“All Things Must Pass”か、1971年に、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、レオン・ラッセル等の豪華メンバーが出演したチャリティー・コンサートのライブ盤「バングラデシュ・コンサート」のレコードの、どっちを買うかで非常に悩んでいた。どちらも3枚組のLPで、小学生の僕がそれを買うには、清水の舞台から3回転ひねりで飛び降りる覚悟が必要だった。
話がそれてしまったが、僕にとってのバングラデシュとの関わりはロックからだったのだ。
バングラデシュは端的に言えば、大陸の大河川の河口の三角州であり、地形も低く水資源が豊富である。したがって本来は、僕のような水資源のコンサルタントはお呼びではない。でも、「水資源が豊富である」と言えば聞こえが良いが、もっとはっきり言わせてもらえばどこに行ってもジャブジャブの「水浸し」の国だ。これでは実際、水質の問題、衛生の問題が大きい。
独立後のバングラデシュは表流水の飲料を止め、1970年代初頭からUNICEFの支援を受け全国的な地下水(井戸)利用への転換を展開した。その結果1,000万本を超える井戸が建設され、人口の約95%が“安全な水”にアクセスが可能になり、水因性疾患率や乳幼児死亡率は劇的に下がり、当時は偉大な開発成功例として評価された。
しかしながら、1993年に衝撃的な事実が判明した。地下水にヒ素が含まれていたのである。そして調査により、3,500万人が砒素ヒ素に汚染された地下水を飲料水としていることが判明したのである。ヒ素は原子番号33番の元素であり、日本では古くからねずみ取りに用いられてきた毒性の強い元素である。1998年の「和歌山毒物カレー事件」が記憶にある方も多いと思う。あの事件で用いられた毒が「ヒ素」である。バングラデシュの地下水ヒ素汚染は、20世紀最大の環境汚染問題とされている。
バングラデシュにおけるUNICEFの地下水普及活動を、「援助で導入された、現地の条件に適さない技術によるもの」と指摘する国際協力研究者もいるが、僕はそうは思わない。UNICEFのアプローチは公衆衛生学上妥当であり、現代のアジア、アフリカ、かつての日本、さらには1800年代のヨーロッパにおいても、地下水利用により水因性疾患の蔓延を克服してきた歴史がある。バングラデシュの地下水砒素汚染は、この歴史で蓄積された知見さえも覆した非常に希な自然条件と言える。
2003年から2014年まで続いたタンザニアのプロジェクトの後、僕はバングラデシュのプロジェクトに、プロジェクト・マネージャーとして従事することになった。インド、パキスタン、スリランカと、ほとんどのカレー圏の国では仕事をしてきた僕だったが、バングラデシュは、プロジェクトとしては初めてだった。そして何よりも、これまでのように、水を(単に)開発するプロジェクトでは無かった。人間と水、水を取り巻く社会、そのような切り口でプロジェクトを常に俯瞰する必要があった。僕はプロジェクト開始の2015年から終了の2022年までの6年間で、何十回もバングラデシュを行き来することになった。