僕の1990年代は、ほぼ砂漠の10年間だった(正確には1989年からの11年間)。それは1度目のエジプト・シナイ半島から始まり、チリのアタカマ砂漠、2度目のシナイ半島、そしてナミビアのカラハリ砂漠を終える頃2000年を迎えた。もちろんその間、1ヶ月~2、3ヶ月の小さな出張はアジア、アフリカに限らず沢山あったが、まあ、僕の1990年代は砂漠の10年だったと言えよう。
そして2000年から、3年間のスリランカのプロジェクトが始まった。スリランカはシンハラ語で「聖なる光り輝く島」という意味だ。ティアドロップ形の島は、砂漠から久しぶりのアジアに戻ってきた僕にとって、まさに「光り輝く」美しい国だった。ただ、あの当時はまだ北部のタミールとの内戦が20年以上続いており、町の至る所に検問所と兵士が配置されていた。「聖なる光り輝く島」は相応しくない光景が、コロンボには色濃く残ってはいた。
スリランカには、紀元前に仏教の開祖ブッダ(仏陀、釈迦)が3度訪れたとされている。そのうちの一つの地ケラニアは、スリランカの重要な仏教聖地の一つである。ケラニアを通るケラニ川で仏陀は沐浴をされ、説教をおこなったとされる。ケラニアのお寺の外壁には、とても美しいレリーフで飾られている。このような仏教遺跡を見ていると、なんとなくほっとする。僕はもちろん仏教徒では無いが、やはり日本人は日常生活の中で仏教“的”な習慣が自然に浸透しているのだろうと思う。もう少し広義に考えると、僕はやはりアジアの人間なんだなあと、スリランカの美しいお寺は感じさせてくれる。
10年の砂漠生活は、僕も緑に飢えさせていたんだと思う。それぐらい、スリランカは何処にいっても緑の豊かな美しい国だった。
しかし、僕たちのプロジェクトの対象地域は違った。そこは、スリランカの南部、モナラガラ県とハンバントータ県。この2県はスリランカの中で唯一の半乾燥地帯であった。僕たちが乗り込んだ2000年も、1/10年干ばつに襲われた年だった。ダムも、川も、ことごとく涸れた。
大人も子供も、皆、とても険しい顔をしていた。渇いた土地と生活は、スリランカの美しい文化に似合わないと思った。