奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

また始まってしまった

また戦争が始まった。

この地域の紛争が始まるとメディアに必ず登場する地図、それはイスラエスパレスチナ自治区を示す地図、その地図では必ず、僕が8年間も地下水の調査を続けた地域、エジプトのシナイ半島を見ることが出来る。シナイ半島は、西アジアアラビア半島とアフリカ大陸北東部の間にある半島であり、東側をイスラエルパレスチナ自治区の一つのガザ地区と接している。ここはアフリカ大陸とユーラシア大陸を繋ぐ地峡であり、南は紅海、東はアカバ湾、西はスエズ湾にそれぞれ面している。半島全体は砂漠地帯である。

旧約聖書出エジプト記では、ヘブライ人らはシナイ半島へ渡り、モーセシナイ山十戒を授かったとしている。一神教キリスト教イスラム教)の人たちにとっては大変な聖地である。

モーゼが十戒を授かったとされるシナイ山の山頂での夜明け(1990年頃の撮影)

中東和平関連地図 出典:外務省ホームページ

シナイ半島は、第二次世界大戦後は繰り返し中東戦争の主戦場となり、4回にわたる中東戦争(第一次1948~49年、第二次1956~57年、第三次1967年、第四次1973年)の度にイスラエル、エジプトはそれぞれ侵攻、制圧を繰り返し、シナイ半島内ではその度に国境線が変わった。ちなみに第四次中東戦争(1973年)は、翌年からの世界的なオイルショックの引き金となった。

シナイ半島に残る中東戦争の残骸。美しいシナイ半島の砂漠に、戦車は似合わない。
もっとも、世界には戦車が似合う地があるとも思えないが。

シナイ半島にはパレスチナの難民も多い。あの頃(調査開始は1989年)のパレスチナ難民は、既にパレスチナに帰ることを諦め、エジプト国籍を得て、エジプトで教育を受け、エジプト人として定住していた。

国際機関により医療支援で派遣されていたドイツ人医師の車が、度重なる中東戦争で設置された地雷を踏み(1970年代後半)亡くなってしまった時の車の残骸(撮影は1990年頃)。
僕たちの調査も、毎日が地雷の恐怖との戦いだった。

我々の調査団にも、パレスチナにルーツを持つエジプト人技術者が何人かいた。ナセル君もその一人だった。当時の僕は調査団の中で最年少であり、ナセル君もエジプト人技術者の中で一番若く、当然のように僕たちは仲良くなった。ナセル君と砂漠のキャンプで羊の肉を頬張りながら幾晩も過ごし、パレスチナの話を聞いた。ナセル君はエジプト(シナイ半島)で生まれている。彼は父親から語られたパレスチナの地を、まるで自分の息子に伝えるように、この平和ボケした日本の若者に語ってくれた。

今から約2,000年前、ローマ帝国によりユダヤ人は今のイスラエルの地から世界各地へ離散したとされている。20年や200年ではない。それは2,000年前の事であるとされている。多くのユダヤ人は世界各国、主に欧州、北アフリカ、中東へと離散した。しかし離散したユダヤ人達は、何世紀にもわたって世界各地で大規模なユダヤ人社会を築き上げ、成長と繁栄を築いた。特にアメリカでのユダヤ人達の経済的な繁栄はすざましく、これがアメリカのイスラエス支持の基盤になっている。逆に厳しい差別や追放などの憂き目にもあった。これは長い歴史がある。ホロコーストは、誰でも知っているこのユダヤ人の虐殺である。

19世紀頃からのユダヤ人による祖国復帰運動(シオニズム)は活発になり、第一次世界大戦中に、当時のパレスチナを統治していたイギリスがユダヤ人の建国の支持をした。そして第二次世界大戦後、国連のパレスチナユダヤ人の国(イスラエル)とアラブ人の国(パレスチナ自治区)とに分割する提案に基づき、ユダヤ人の国として現在のイスラエルを建国した。近隣のアラブ諸国の反対を完全に無視して。そしてこのしこりは中東戦争に発展した。そして今(2023年10月7日)勃発したハマスイスラエルの攻撃は、もはや第五次中東戦争と言えると思う。しかしこれまでの4回に渡る中東戦争と今回の戦争は、大きな違いがある。それは、かつての列強国の巧みな外交が、ハマスパレスチナ)を完全に孤立させてしまっているということである。ハマスは追い詰められたあげくの、悲痛な攻撃に出てしまったように僕は感じる。

どちらも悲劇だと思う。大変な悲劇を背負っている。ユダヤ人もパレスチナ人も。その悲劇は我々の想像を絶する深さだと思う。

なぜ、一体どんな理由でユダヤ人を国から追放し、迫害するのか。ナチスのあの恐ろしい行為は、その2,000年に渡る世界中でのユダヤ人に対する迫害の歴史ほんの一瞬なのだ。

一方、その2,000年間に渡りそ彼の地で国家を築き生活を続けているパレスチナ人に、いかなる理由でその地を「分割しろ」と言えるのだろうか。それが自治区?そしてそれが何故、国際秩序となり得るのか。

どちらもずいぶん勝手な話だと思う。他の記事でも書いたが、国の名前を好きなように変えたり、他国の国境線を自分たちの都合で引いたり、そういう歴史が悲劇を生んでいるのだということを、僕たちは知っておくべきだと思う。

ナセル君は今回のハマスの攻撃をどう受け止めているだろうか。もし今、約35年ぶりに彼に会うことが出来るならば、どうか憎まないで欲しいとお願いしたい。憎しみが続けば、戦争は続く。戦争が続けば、憎しみはさらに増える。歴史はこれを繰り返しており、それで良い結果が出たことはたったの一度も無かったということを、僕たちは強く認識しないといけない。

 

注:これは単なる写真好きの市井の人のブログであるため、史実、年号、数字的なところに関しましては間違いもある可能性はあります。また、自分の意見が地政学的にも絶対に正しいとは思ってはおりません。他の意見もあって当然と思っております。あしからずご了承をお願いします。