奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

僕を乗せて地球を走った車たち

僕は車が好きだ。

僕が少年時代、幼稚園から小学校の高学年になるころあたりまで、日曜日は家族で自家用車(当時はわざわざそう呼んでいた)にのって日本橋のデパートに行くのが毎週の恒例だった。僕は決まって紺のブレザーに紺の半ズボン、そして白いハイソックスに革靴はいていた。その姿が恥ずかしい、と僕が気づく年頃まで、我が家は毎週その恒例行事を続けていた。

デパートは、買い物だけで無く1960年代の日本の家族の行楽のひとつのような存在だったような気がする。デパートに行く。子供心にもその響きは実によかった。父はデパートのことを一人で「百貨店」、あるいは”Department Store“とフルネームで呼んでいた。よく行った百貨店は、日本橋白木屋高島屋だった。三越もたまに行った。白木屋は途中で東急デパートになったが、江戸時代から続いていた呉服屋で、日本の百貨店の老舗中の老舗だったと思う。僕の世代より若い人は、もう白木屋なんて名前も知らないだろう。

家族全員で百貨店に行っても、母と姉の女性陣と、父と僕の男性陣は別行動することが多かった。そしてお昼近くになると、家具売り場で女性陣と男性陣は合流し、4人で最上階の大食堂でランチを食べるのである。家具売り場いつも閑散としているから、お互いを見つけやすいので。父は自分と僕にはかならず洋食系のランチを選び、ウエイターにナイフとフォークを持ってこさせ、僕に洋食の作法を教えた。百貨店の大食堂でナイフとフォークで食事をしている人は、僕と父以外にはいなかった。

僕と父は百貨店ではなく、近くにある日英自動車のショールームに行って、ジャガーオースチン・ミニ、MG(モーリス・ガレージ)、トライアンフといった英国車を飽きずに眺めていたことも多かった。僕の車好きはその頃から始まったのだ。当時の日本橋路面電車が走っており、その合間を縫うようにボンネットバスオート三輪のトラックや、国産の小さな自家用車と、黒い社用車が行き来していた。希に外車を見つけると父は異常に興奮して車名を叫び、エンジンの排気量や気筒数、主要なスペックを早口で説明して僕に教え込んでいた。日本橋は、当時としては最も外車を見ることが多いエリアではなかっただろうか。いつの間にか僕も外車が通ると、直ぐに車名やスペックを正しく言えることができるようになっていた。日本にも今のように沢山の外車が走る時代が来るなんて、子供の頃の僕は想像できなかった。当時の我が家の車はトヨタのパブリカ。800ccの空冷エンジンで、家族4人を乗せていろんなところを走りまくった。当時の政策の国民車構想を受けて開発されたトヨタ初の大衆車だった。

その頃、僕は週に何度も大学病院に通う必要があった。生後6ヶ月で重度の肺炎を患った僕は、小学校のほぼ6年間は慢性気管支炎で病院通いが続いた。母はそのために当時女性では珍しい運転免許を取り、小学校の前に車を横付けにして僕を待ち、大学病院に連れて行った。気管支炎の治療のため、定期的に注射をすることが必要だった。病院に行く車の左側の助手席に座る僕は、右手でシフトレバーを握る。右側の運転席に座る母の左足がクラッチを踏み、ギア名(ロー、セカンド、サード、トップ、と母は4速のギア名を正確に言った)を僕に告げると、僕も「サード!」と叫びながら素早く指定されたギアにシフトチェンジをする。いつの日からか、こうやって母と二人で運転するようになっていた。もちろん、僕がやらせて欲しいと頼んだのが最初だったと思う。母は、学校が終わっても友達と遊びに行けずに病院通いで注射ばかりの僕を不憫に思い、こんなことを許したのであろうと思う。お陰で大学生になって直ぐに行った自動車教習所で、教官を隣に乗せて初めて車を運転したとき、「君、無免許で運転していたでしょ」と言われてしまった。

また前振りが長くなってしまった。

そう言う訳で車好きの僕は、今回のブログで僕を乗せて地球を走りまくった車達を紹介しようと思う。プロジェクトの車両は、基本的にクライアントが調達してくれる。そしてドライバーは、先方政府機関から出してもらう。あるいは、その国で雇ったドライバー付きのレンタカー。したがって、自分で購入して自分で運転する車ではない。そして僕たちが走る道は舗装道路ではなく、砂漠やサバンナ、時にはジャングルだ。当然四輪駆動の車になってしまう。僕は少年時代からスポーツカー、しかも小さなスポーツカーが好きだった。したがって四輪駆動の車には興味が無いが、1つのプロジェクトで何年も僕を乗せて荒れ地を走りまくってくれた車達には、それぞれ愛着が沸いてくる。今回はそんな車達を紹介しよう。

カトマンズのパシュパティナートと三菱ジープ(1985)

古い順から(すなわち僕の若い順から)紹介しよう。まずはネパール。カトマンズシヴァ神を祭るネパール最大のヒンドゥー教寺院、パシュパティナートでの一枚だ。僕が若い!20代だ。まだ髭を生やしていない!このときは三菱のジープだった。この型のジープはもはやクラッシックカーだ。タイヤのサイドウォールの厚みがすごい。重い車重と分厚いタイヤで、とてもふわふわした乗り心地だった。堅いボディーで僕が乗ってもボンネットがへこむことはない。

ヤンゴンでオーバーヒートを起こしたヒンドゥスタン・アンバサダー(1986)

次は1986年のビルマ(今のミャンマー)。車はインドの誇る国産車、ヒンドゥスタン・モーターズのアンバサダーだ。ベース車は1950年代のモーリス・オックスフォードで、イギリスから生産設備ごと輸入してインドで製造を開始した。モーリスは1913年から1984年の歴史を持つイギリスの自動車メーカーだ。今はBMWが製造しているが、名車「ミニ」の開発はモーリスだった。このアンバサダーもなんと1958年から2014年まで製造されていた。僕はこのアンバサダーは非常に気に入っていた。日本で個人輸入しようかと思ったぐらいだった。写真はオーバーヒートを起こして動かなくなった僕のアンバサダーを押してくれる通行人のビルマの皆さん。おそらくどこかに行こうとしていたのだと思うが、「ま、いいか。のんびり行こう」という気になって写真を撮った。そういう気分にさせてくれる国だった。

シナイ半島の砂漠を走りきったトヨタ・ランドクルーザー(1991)

つぎはエジプトのシナイ半島の砂漠を走りまくったトヨタランドクルーザーシナイ半島は1989年~1993年の4年間のランドクルーザーで北シナイの調査、そして1995年~1999年は4年間の三菱パジェロで南シナイの調査、シナイ半島の全てを走りまくった。当時の僕はベトウィン(砂漠の遊牧民族)よりも砂漠を知り尽くしていた。

砂漠の木陰で休息する三菱パジェロ(1996)

三菱パジェロは南シナイの4年間、僕たちと一緒に走ってくれた。パジェロと言えばパリ・ダカールラリー。僕たちはラリーさながら、砂漠の中を走りまくった。写真は、砂漠では滅多に出会えない樹があったので、木陰で休息を取るパジェロと僕たち。

カラハリ砂漠でドロにはまった日産ダットサン・ピックアップ(2000)

2000年、ナミビアカラハリ砂漠で1/100(百年に1度)の降雨があり、窪地に水がたまった。このような乾燥地では降雨量のほぼ半分は蒸発し、残りの50%が地表で流出して表流水(川)になるか、地下に浸透して地下水になる。このときのカラハリ砂漠は地表の流出が多く砂漠の低地ではいたるところで洪水になった。この年は、南アフリカモザンビーク等、アフリカ南部で巨大サイクロン(インド洋に発生する発達した熱帯低気圧)が発生した年だった。僕たちを乗せたダットサン・ピックアップは泥沼化した砂漠の道路でスタックして、この日は宿舎にたどり着けたのは深夜だった。

ダットサン・ピックアップを抜き去るキリン(2000)

ナミビア北部の中央高原のブッシュをダットサン・ピックアップで走っていたら、突然現れたキリンに追い抜かれ、あっという間に見えなくなった。ダットサンも、50~60km/hの速度で走っていたのに。キリンの足の速さに驚いた。一瞬の出来事であり、とっさの撮影でピントが合っていない(もちろんマニュアルフォーカスのカメラで撮影)。

エチオピア、フルーテ?カフェでランチ休憩する日産パトロール(2003)

日産サファリは、アフリカではパトロールという。「サファリ」はスワヒリ語で「旅行」という意味だ。日本人にとってはちょっと冒険みのあるエキゾチックな名前なので日産が戦略的につけた名前なのであろう。アフリカでは「パトロール」と呼ばせた。この日は首都アジスアベバから北部のアファール州まで、パトロール君と一緒に走った。途中でカフェがあったのでランチ休憩だ。パトロール君も休ませないと、エンジンの温度はかなり上がっている。エチオピアは、54カ国のアフリカ諸国のなかで唯一独自の文字を持つ国、右側の白い看板がエチオピアの文字だ。外人が通りかかるようなところではないのに、真ん中の看板には” WEL COME TO FRUITE CAFÉ“と書いてある。” WEL COME”はワン・ワードなのにスペースが空いている。そしてFRUITEは、Eが多い。FRUIT(フルーツ)と言いたかったのだと思う。カフェには果物なんて無かったけど。アフリカのこういういい加減なところがかわいい。

タンザニア、サバンナの大草原でスタックするトヨタ・ランドクルーザー(2010)

2010年、タンザニアの内陸部の大草原サバンナで大降雨が発生した。乾燥地帯での急な豪雨は非常に危険だ。ランドクルーザーは泥沼化した道路の深みにはまり、スタックした。近くの村の青年達が集まって救助を手伝ってくれたが人力では所詮無理だった。無線で救助を呼び、車両は後日重機を出して引き上げてもらった。僕たちの移動はこのようなスタック、車の故障、そして遭難というリスクは常に隣り合わせだ。したがって、2,3日は生きていける水と食料は常に車に積んでおかなければいけない。

ザンジバル、日産ラバナ(2024)

一気に今の僕のプロジェクト、ザンジバルまで飛んで来た。車は日産ラバナ、日産の輸出向けのダブルキャビン・ピックアップトラックだ。プロジェクトの車両には(車だけで無く調査の機材等にも)”From the People of Japan”(日本の人々から(の支援です))というステッカーが貼られている。” From the Government of Japan” (日本の政府から(の支援です))と書いていないところがちょっと嬉しい。僕も納税者だから。

おまけ。東京での僕の相棒だったMGB

日本にいるときの僕の毎日の通勤、休日のゴルフ、一人でのお出かけはMG(モーリスガレージ)の1979年製のB型ロードスター、通称MGBが僕の相棒だった。2008年まで僕と一緒に走った。子供達が幼稚園児の頃は、毎朝出勤途中の幼稚園までMGBで送った。子供の頃、父と一緒に日英自動車で眺めていたMGのうちの1台だ。冬はまだ良いが、今、東京の夏に乗ったら暑いだろうなぁ。そしてあの超重いハンドル、今の僕で切れるかなぁ。そろそろ僕も人生最後のステージ。そのステージにもう一度この相棒をと思うのだが・・・。