奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

連携。ドナーと国際機関が見せた底力

「空博さん、すみません、帰国を1、2週間ほど延期してもらうことは可能ですか?」

ダッカで海外出張用の携帯電話の着信を受けると、日本からクライアントさんの国際電話であった。この年(2017年)の8月から9月にかけ、ミャンマーから国境を越え、80万人のロヒンギャ難民がバングラデシュのコックスバザールに避難してきた。クライアントからの電話は、至急コックスバザールに行って欲しいという依頼だった。日本政府は、ロヒンギャの難民へ安全な水の供給支援をしたいと考えているところ、水源の開発が出来るかどうか視察してきて欲しいとのことだった。僕はダッカのホテルのテレビでBBCニュースを毎日見ていたので、いつかは来るなとは思っていたが、こんなに早く来るとは予想外だった。この電話を受けたのは、10月だった。

ある地域(しかも何もインフラが無い地域)に、たったの1、2ヶ月という短い期間で、80万人(ちなみに日本だと、山梨県佐賀県が人口約80万人である)の人々が急に集まると、いったいどういう事態になるか想像できる人はいるだろうか。僕はできる。80年代はパキスタンペシャワールアフガニスタン難民キャンプで、90年代はタンザニアのカゲラ州のウガンダの難民キャンプで仕事をしてきたから。それは想像を絶する最悪な衛生状態に陥り、水因生疾病が蔓延し、難民の死亡率を著しく増加させる。食料も必要だが、それ以上に水の供給が緊急に必要である。

この頃、バングラデシュの日本の支援による全プロジェクトは、ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件(2016年7月1日)を受け、厳しい渡航制限、すなわち、「一回の渡航は1プロジェクト2名までにすること」および「1渡航の滞在は最大で2週間までにすること」の制約を受けていた。2017年の4月からプロジェクトは再開したものの、この制限のお陰で僕は2週間バングラデシュで仕事をし、1週間は日本に帰り、また2週間バングラデシュというサイクルを繰り返していた。クライアントからロヒンギャ難民キャンプの調査の打診を受けたときは、ちょうどその2週間の滞在の最後の日の前日。「さぁて、あさっての晩はお刺身で熱燗だな♪」と考えていた時であった。電話を受けた僕は、「1渡航の滞在は最大で2週間」という渡航制限のことが心配であった。そのこと(刺身と熱燗のことでは無い)を言うとクライアントさんは、「大丈夫です。今回の空博さんの期間延長は、既に外務省から特別に許可を取り付けてますから」と答えた。

それは素晴らしく早い根回し、ありがとうございます(とホントに思ったかどうかは忘れた)。

僕は頭の中の“刺身と熱燗”を両手でつかみ出してゴミ箱に捨てると、2日間でコックスバザールの地形や地質条件を文献や既往調査のレポートで読み込んだ知識を頭に詰め、ダッカからコックスバザールに飛んだ。

ロヒンギャ族ミャンマービルマ)最南西部のベンガル湾沿岸地域、ラカイン州に住むイスラム教徒である。もともとは百年以上前のイギリス植民地時代にイギリス領インド帝国(現在のバングラデシュも含む)から労働者として当時のビルマに連れてこられた人々ある。原因をたどっていくと、ロヒンギャ難民だけでなく、今世界中で聞こえる悲しい不協和音はいつも列強国の帝国主義にたどり着く。

無理矢理連れてこられたロヒンギャの人々は、今もってミャンマー国民とは認められて(市民権を有して)おらず、仏教国ミャンマーでは異教徒として排斥され続けている。100年以上も。ミャンマー国内における反ロヒンギャの強い動機となっている原因はもう1つある。それは日本も絡んでいるのだ。1944年、それは日本がビルマを占領していた時期、第2次世界大戦中で最も過酷で無謀な戦いとして知られているインパール作戦だ。作戦は、当時イギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指すものだった。この作戦で日本軍はビルマラカイン州に住む仏教徒武装化させ、戦闘に利用した。同じくイギリス軍は今のバングラデシュイスラム教徒―それがロヒンギャ達だったのだーを武装させ、ラカイン州に侵入させた。この作戦は実質2つの大国にそれぞれ操られたイスラム仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、両教徒の対立は取り返しのつかない頂点に達した。ひどい話だと思う。これが今もってミャンマー国民(仏教徒)がロヒンギャを排斥し続ける大きな原因になっている。ロヒンギャは今、「世界で最も迫害された少数民族」と呼ばれている。

このような環境下で、ロヒンギャの若者が、イスラム過激主義に洗脳されていったことは、善悪は別にしても容易に想像ができる。若者たちは、ロヒンギャ武装勢力「アラカンロヒンギャ救世軍」(ARSA)を結成した。今回の難民大量流入のきっかけは、ARSAによるミャンマーの警察施設の襲撃の報復として、ミャンマー国軍がロヒンギャに対する掃討作戦を発動し、集落を焼き払い、乳幼児や女性、高齢者を含む住民を無差別に殺害したことに依る。弾圧の犠牲者は「控えめに見積もって1万人」(国連調査団)、「最初の1カ月間で少なくとも6700人」(国境なき医師団)などと推計されている。この掃討作戦は国際社会でミャンマーへの非難が渦巻いたほか、ノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチー国家顧問(当時)がこの事態に積極的に対応しなかったことも激しい批判を浴びた。国連調査団はミャンマー国軍この掃討作戦をジェノサイド(大量虐殺)と認定したが、スーチー国家顧問は国際司法裁判所(ICJ)でそれ(ジェノサイド)を否定している。

コックスバザールの空港に着くと、国連の職員が僕を出迎えてくれた。空港から各国ドナー(国際協力機関)や国際機関の職員が集まる政府系機関の会議室に直行すると、それぞれが自分たちがやっている活動と、僕に提供できる支援、それらは情報だったり、人材の提供だったりを紹介してくれた。当時、バングラデシュの水セクターの開発は日本がトップ・ドナーだっただけに、他ドナーの今回の日本への期待は大きかった。

僕は次の日から警護車両の付きで、国連が用意してくれた案内と調査助手のスタッフと一緒に難民キャンプとその周辺を走りまくった。無駄な時間がまるでない。何をするにもドナー間は連携し、常に先回りして手筈を整えていてくれる。

本来なら手つかずの自然が広がるコックスバザールの丘陵地帯の未舗装の道路が、大量の各国のドナー車両で渋滞しているという異様な光景にまず驚く。そして難民キャンプに入り、劣悪な衛生状態にさらに驚く。僕は難民キャンプ支援の仕事の経験はある方だと思うが、難民発生からこれほど短い時間でキャンプ入りしたのは初めての経験だった。また、ロヒンギャ難民達の生活環境の劣悪さもさることながら、その周辺地域の住民(バングラデシュ人)への影響、特に衛生面への影響もひどい状況だった。

僕の最初のこの調査で、3カ所の地下水開発の有望地域を発見した。それを報告するとクライアントは直ぐに予算をつけて、日本から詳細な調査のための機材と技術者を派遣してくれたので僕は本格的な調査を開始することが出来た。日本の調査の結果、かなり大規模な水量を得ることが出来るとわかると、複数の他ドナーや国際機関が直ぐに施設建設の協力を申し出て、瞬く間に水道施設が完成した。

僕がこの仕事を始めた頃と大きな違いは、この各国のドナー間の連携力の強さだ。

しかしこの連携を、難民や紛争と言った緊急事態だけではなく、広く国際社会が調和できる活動に繋げてくれないだろうか。そういうことに協調してくれる国をどうしたら増やすことができるのだろうか。僕が学生の頃は無かったが、最近は多くの大学で「国際関係」や「国際協力」的な学科を設けている。実は無宗教な日本人、具体的にいうとキリスト教でもイスラム教でも無い日本人って、そういうことに“協調してくれない国”からはポジティブな感情を持ってくれていることが多い、と僕は感じている。国際関係を学ぶ次世代の日本の若者には、是非とも活躍して欲しい。

ロヒンギャ難民は、ミャンマーラカイン州からバングラデシュとの国境となるナフ川を渡ってコックスバザールに来る。
写真はナフ川の辺の緊急に建設したバングラデシュ移民局の事務所。難民はまずここで登録される。遠くに見える山脈がミャンマーラカイン州、その手前の森の前に見える細い白い線がナフ川。川幅は非常に広い。たどり着けず、海に流されてしまったボートも多い。

難民の家は、細い竹とビニールシートで急ごしらえしたもの。
家の中にも外にも、人、人、人、人、人・・・・。家の中も見せてもらったが床はなく、地面のまま。たまたま中を見せてもらった何件かのビニールシート家の1つが、結婚直後にミャンマー国軍の掃討作戦に巻き込まれた新婚の夫婦だった。若い二人の絶望した暗い顔が今でも頭に残る。

極度に劣悪な衛生状態の一番の被害者は、子供達である。
この環境から直ぐに脱出させないといけない。

ロヒンギャ難民の子供。
一瞬でも微笑んでくれると、僕はとても救われる。