奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

混沌(カオス)の国、バングラデシュ

僕のかつての会社は、世界中のエンジニアリング会社ランキングでも常にベスト10に入る大きな開発コンサルタント会社であった。したがって、あらゆるセクター、それは水資源、農業、都市開発、建築、道路、橋梁、鉄道、電力etc. 多様なエンジニア(コンサルタント)がいて、常に世界中を飛び回っていた。大きなハブ空港(例えばバンコク、ドバイ等)のラウンジで同僚とばったり出会うなんてことも珍しくない。あるいは、到着して手荷物カルーセル(手荷物がグルグル回るベルトコンベアみたいなやつ)で会社のロゴが入ったジェラルミンのトランクを受け取ろうとすると、隣から日本人のおじさんが「それ私のです」といって横取りされたこともある。そのおじさんも、本社では見たことなかったけど同じ会社のエンジニアで、僕のトランクは後から回ってきた、なんてこともあった。

本社には大きな本棚があって、そこには海外旅行ガイドブックの「地球の歩き方」が沢山置かれていた。東京のどんなに大きな書店でもあり得ないぐらい、ありとあらゆる国の「地球の歩き方」が置いてあり、初めての国に行くときはよくそこから借りた。「地球の歩き方」は、若いバックパッカー向けの旅行ガイドと思われがちだが、実は海外旅行(出張)といっても観光地には用がない我々開発コンサルタントにとっては、他の一般的な旅行ガイドより得られる情報が多いのだ。

すこし前振りが長くなった。あらゆる国の「地球の歩き方」が並ぶ会社の書棚の中で、ひときわ薄いのは、バングラデシュである。それは測定するまでもない。一目見て一番薄いのがわかる。でも、値段は同じなのかな?他の国と。バングラデシュに行く前、なぜこんなに薄いのか考えたことがある。おそらく、情報が少ない。あるいは、観光地や見所が少ない。2008年に初めてバングラデシュに着いた僕は、直ぐに僕のその予想は当たっていたことに気づいた。この地でたとえ長期の休暇を与えてもらったとしても、行くところは無い。まあ、ゴルフに行くぐらいか・・・、要は旅行してみたいと思うところが無いのである。

バングラデシュで唯一有るのは、混沌(カオス)である。僕は多くの国を訪問したが、バングラデシュの混沌さは間違いなく1番だ。混沌とは、広辞苑によると以下の説明がある

  • 天地開闢(かいびゃく)の初め、天地のまだ分かれなかった状態。
  • 物事の区別・なりゆきのはっきりしないさま。

[出典:広辞苑 第七版]

天地開闢なんて科学的な根拠は全くないが、なるほど、バングラデシュを見ていると然もありなんという気がしてくる。「物事の区別・なりゆきのはっきりしないさま」というのも、視覚的には感じにくいが、バングラデシュの社会の中に入ると、なるほどと思えるところが沢山ある。バングラデシュは混沌の国であり、この混沌こそが魅力の国であるが、それは一般的には旅行の目的にはならないのである。

混沌の所以の1つは、バングラデシュの人口だと思う。バングラデシュの人口は1億6,468万人で、世界で最も人口密度が高い国である。どこに行っても人が多い。また、地形はインドとミャンマーに国境を接し、ガンジス、メグナ、ブラマプトラの3大河川の氾濫原に位置するため、国全体が巨大な三角州だ。これらの大河川は世界でも最も汚れている川とされている。ヒマラヤから、インドから、ミャンマーから、あらゆる汚染物質が流れ込み、それらが堆積して形成した国土も混沌だ。しかしこの混沌さ、ここまで混沌としていると、ある種の美しさを感じる。隠し立ての無い群像、沼のような人間社会、底なしの貧困、21世紀の今、そんなものが見えてくるのはもはやバングラデシュだけかもしれない。

首都ダッカにある旧市街オールド・ダッカには、インド人も尻尾を巻いて逃げ出すカオスが広がっている。そこは日我々の社会では見られない”非日常”の世界であるが、混沌の象徴のような美しさがある。

自転車による人力車は、混沌のバングラデシュの庶民の足である。
これはインドでも、インドネシアでもスリランカでも「リキシャ」と呼ばれている。おそらく第二次世界大戦時の日本の短い占領期間に普及したのであろう。リキシャには元締めがいて、運転手は元締めからこのリキシャを借り営業する。一日走っても手元に残るのは非常に少ない金額で、リキシャの運転手は皆ガリガリに痩せ、いつも険しい顔つきをしている。混沌の中の底辺層なのである。

おそらくイギリス統治時代のイギリス人が住んでいたのであろう家の廃墟。
ここまで来るともはや僕には芸術性を感じてしまう。

 

原子核と電子

僕の仕事は、簡単に言えば「水」を探す仕事である。娘がまだ小さい頃、一緒にお風呂に入るとかならず、「ねえ、パパのお仕事って、砂漠に行って水を見つけて「おーい、ここに水があるよ~!」って砂漠の人に教えてあげることなの?」と聞かれる。娘に僕は仕事の話はしたことが無かったのに。おそらく、息子(兄)か妻から僕の仕事を聞いて、娘なりに解釈した内容なのだろう。面倒くさいから「そうだよ」と答えると、「ふ~ん、すごいねえ、砂漠の人は喜ぶね~」と感心されてしまう。

それはともかく、水の化学式は、皆さんご存じのH2Oである。

水素イオン(原子記号H)は+の電子を1つ持っているイオンで、酸素イオン(原子記号O)は-の電子を2つ持ったイオンだ。化学式というのは、必ず+と-が同じ(足したら0)になるようになるので、水は酸素O1つに対して水素Hが2つ、すなわちH2Oが化学式だ。

僕は中学生の頃、理科の時間で、分子を構成する原子核と電子の関係を習った時、異常に興奮した。原子核の周りを、電子がクルクルと回っている。その関係を教師が黒板に描いた時、これは地球と月、太陽と地球の関係だと思った。地球が原子核で、電子の月はその周りをクルクル回っている。太陽が原子核で、地球がその周りをクルクルと回っている。

ということは、この地球も、何かの物質を構成している分子の一つであり、例えば僕たちからすると天文学的な大きさの動物の足の爪を構成する分子の一つで、その爪先が欠けるか削れるかまでの時間が地球の寿命である。そしてその巨大動物が住む超巨大な惑星は、超々巨大な魚を構成している分子の一つであり、そしてその超々巨大魚が住む惑星も、実は超超々天文学的に大きな昆虫を構成する分子の一つである。

あるいは僕の体を構成している分子。例えば去年僕は健康診断の胃カメラで見つかったポリープを切除した。そのポリープを構成していた一つの分子の一つは、実は高度に発達した生命が生息している惑星なのであった。しかし、地球の様に環境汚染を引き起こしていたその惑星が、僕の胃のポリープの病理だったのだ。

だから宇宙の時間と空間は無限なんだ。大きい方へも、小さい方へも、無限なんだ。

僕は勉強もせずに、そういう事をずっと空想していた。

今日の僕の空想を表す写真は無いので、冒頭の娘の感心「すごいねえ、砂漠の人は喜ぶね~」の写真にした。砂漠の人では無くてスリランカの人だが。

お父さん、僕に手合わせないでください。
実はこれは試験のための井戸で、今、ポンプを入れて地下水の揚水量の試験をしていますが、この試験が終わると水位計を設置して、これから何年も地下水の水位変動を測定するための井戸なのです。

一般的に地下水は平野を構成する堆積物(砂とか砂利とか)の粒子の間に胚胎されるが、スリランカのように岩盤(スリランカの場合は変成岩)地帯では、岩盤に出来た亀裂や破砕部に貯まる地下水を狙う。掘削の方法は、エアーハンマーといって、圧縮空気を使ってハンマーで岩盤を叩き粉々にして掘削する。だから地下水が胚胎する亀裂や破砕部に到達すると、このように水が吹き上がる。沢山のギャラリー(村人)が驚喜する瞬間だ。

僕は一日中井戸掘削工事現場にいるわけではないが、いつ来ても村の子供達は飽きずにずっと工事を見ている。「学校行かなくて良いのかい?」と問いたいほど。掘削が終了してポンプを挿入し地下水を揚水したら子供達は大歓声で水に集まる。 「試験中だから入っちゃ駄目だ、離れなさい」と大声で子供達を叱るスリランカの水資源開発機構のエンジニア氏を「まあ、ちょっとぐらい良いじゃないか」と止めたらこんなことになってしまった。

子供達の次には村の女性陣が集まってくる。彼女たちの笑顔を見ていると、「ごめんね、これ、一週間の試験の後は水位測定のための井戸になっちゃうんだ」と説明するのも辛くなる。

 

井戸の中で

僕は地下水の専門家なので、表流水(河川水)に乏しいアフリカやアジアの国々が僕のクライアントさんだ。河川に恵まれていたとしても、表流水は浄水施設に大きなコストがかかる。だから水質が良好で水処理が必要ない地下水は、開発途上国にとっては非常に重要な水資源である。

僕の仕事は、1つのプロジェクトが大体3年から5年かかる。まずその国の保有するあらゆるデータを分析し、その上で足りない基礎情報を集めるために様々な地質調査をする。ここまでが、まあ最初の1年。2年目からはもう少し具体的な調査・探査をする。病院で言えば、レントゲンや超音波検査。そういうことを僕たちは地球に対して行う。3年目からはそれらの結果を総合的に判断し、何処地域にどれぐらいの地下水が賦存しているか検討をつける。その上で、想定した地域に実際に井戸を掘り、地下水を揚水しながらいろいろな試験を実施し、さらに具体的な地下水ポテンシャルを評価し、その国の地下水開発計画を策定する。だから僕にとって、井戸を掘ると言うことは(僕が実際に掘るわけでは無いが)、病院で言えば、患者に手術をするような特別な感覚を持っている。実際に患者の身体を切り、患部を直接治療する。井戸は僕にとってそういう感覚なのだ。

一方、僕は井戸に対してもう一つ違う感覚を持っている。それは地球が丸いがために抱く感覚だと思う。地表に対して垂直に井戸を掘ると言うことは、地球の内核の方向に坑を開けているとだ。

今、世界で一番深い井戸は、西ロシアのコラ半島にある深度12,262mの超深度掘削坑だ。石油の井戸がおおよそ3,000~5,000m、水道水源の地下水を取水する井戸ならせいぜい数メートルから百数十メートルであるので、コラ半島の井戸は相当深いことがわかると思う。僕は、井戸の建設現場に行くと、もっと掘って欲しい。コラ半島の井戸よりももっと深く、内殻も貫通して地球の裏側まで通じる井戸を掘って欲しい。そういう感情に囚われてしまう。そして地球の裏側まで通じる井戸が完成したら、僕はそこに飛び込みたい。

きっと凄いスピードで落ちていくに違いないが、地球の中心である内核を通過すると裏側の半球の地表に向かって上昇に転じるはずだ。そうすると今度は来た方の半球の重力に引っ張られまた落ちていく。そして中心まで落ちると瞬時に上昇に転じ、今度はまた反対側の半球の重量に引っ張られる。そうやって井戸の中を何度も行き来しながら、最終的には井戸の中心で浮かぶはずだ。そこは大気圏も含む地球の中の全ての重力の中心点だから。

落ちるとか、上昇するとかは、今自分が立っている地点から見ての関係であるが、そもそも、この力関係には上下も左右もない。上も下も右も左もない地球の中心点、それはインドで発見されたというゼロ――無であり無限であるゼロ――の世界でもあり、そんな空間が固体地球の内部にほんの一点だけ存在していることを思うと、そここそが自分の本当の居場所ではないかとさえ思う。そこで一人で浮かんでみたい。

そんなことを、僕は一人で空想している。写真は、エジプトのシナイ半島で僕たちが掘った試験井戸。深度は2,000m。僕が携わった井戸としては、最も深いし、世界的にも水井戸としては最も深い井戸だと思う。僕はエジプトのシナイ半島の井戸だけで、4本の論文を書いたし、僕が書いた論文で、世界中で引用件数が一番多かったのもシナイ半島の井戸だった。井戸掘削業者は、石油井戸の掘削機を持っているエジプトの業者と契約した。1本の井戸を掘るのに、5~6ヶ月かかる。その間、僕のバカみたいな空想はずっと続いていた。

エジプト、シナイ半島での2,000m級の井戸掘削現場。エジプト人ドリラー(井戸掘削技術者)の」何人かが、お祈りの時間が来たのでアッラーに祈りを捧げている。

櫓の高さが尋常ではない石油井戸掘削のRig。こんな大規模なRigを用いて井戸掘削をしたのは、シナイ半島のプロジェクトだけだ。

Rigを操作するエジプト人ドリラー(井戸掘削技術者)。真ん中で、ターンテーブルがグルグル回っている。この先にBitが付いており、地下深くまで掘削する。地球の裏側まで掘ってくれ。僕は契約書には書いていないことを、ドリラーに心でお願いしていた。

掘削した地層(あるいは岩石)の標本を見て、僕たちは今どの年代の地層に辿り着いたのか見極める。本当は理工系ではない僕が、この仕事を続けてこれた面白さの所以の一つ。

 

進化の理由を考える

いったいどのような環境の変化に対応するために、このような姿形になってきたのか。先の記事で写真を載せた長い尾が優雅でおしゃれな鳥のように、僕は見たことのない動植物の姿形を見るとそんなことばかり考えてしまう。

見たことのある動植物だって、僕にとっては不思議が一杯ある。例えばキリン。ダーウィンの進化論では、「キリンの祖先はエサを求め競争するにつれて首が長くなり、高いところの葉に届くようになって、背丈の低い動物より優位に立った」とある。僕はアフリカ中走りまくったけど、低いところに葉をもつ植物もどこでも沢山あるし、むしろ高いところにしか葉を持たない木を見る事の方が希だと思う。ということは植物も進化しており、ある時代には高いところにしか葉を持たない木が増え、キリンの首は長く進化したのであろうか。でも、それでは今首が長くない草食動物(そっちの方が多いと思う)は、その時代はどうしていたんだろう。子供の頃から僕は、大人が「そんな事、どうでも良いでしょ」と言うことを、深く掘り下げて考えてしまう少年だった。

今回は、もう少しアフリカの不思議な植物たちの写真を紹介したい。動物や昆虫の方が、よりその不思議さを実感できると思うが、本当のアフリカ(観光客が行かない地域)で動物や昆虫の写真を積極的に撮りに行くのはかなり危険を伴うし、それはクライアントさんから求められている仕事では無いので、非常に残念だが植物に範囲を定めたい。どれも、ダイナミックな進化ではないと思う。それは生物が海から淡水域へ、そして淡水域から陸へ進出するような大きな進化ではなく、小さな環境の変化による形質の遺伝的変化だったのであると思う。でもそれは一体、どんな理由だったのだろうか。アフリカの植物は不思議で一杯だ。

タンザニア・モロゴロ州で見つけた植物。
花の中から茎が伸び、その先に花が咲き、その花から茎がまた延びる。あるいは、茎の節々で、その節を囲むように花が咲くのであろうか。これはかなり不思議だ。
映画エイリアンで、エイリアンの口からまた違う口が出てくる、グロテスクなシーンを思い出してしまった。でもこの植物は、グロテスクではない。見ようによっては、簾のような和の美しさを感じる。

空豆のさやのような種子をぶら下げた木。
これは、アフリカだけで無く、アジアや中南米でも見られる。さやは、とても大きく堅く、ブーメランのような形をしている。枝から離れるとヘリコプターのプロペラの様にクルクルと回転し空中に停滞し、その間に風に乗って木から遠いところに着地する。同じところで発芽し、餌(土の養分や水)の取り合いにならなうように。
日本に多く生息している、いつまでも親離れできない若者達に見せてあげたい。

この木を僕はアフリカ以外で見たことはない。
葉は堅く筒状に丸まり全てが上を向いている。光合成をするためには、葉は広げて横方向に展開した方が絶対効率が良いのに。
世界で最も効率の悪い人間である僕が言うのも大変失礼だが。

 

不思議な形のアフリカの樹木たち

アフリカで仕事をしていると、人々の多彩な生活(拙稿、カラフルアフリカ参照)や野生動物達の多様性に驚くが、植物、特に不思議な形の樹木にも驚かされることが多い。例えばバオバブの木、あのお銚子(大酒飲みの僕だからそう見えてしまうのかもしれないが)のようなかっこした太い幹、ご存じの方も多いと思う。

このブログタイトルは「奇妙な形の野菜たち」である。野菜は、環境要因や障害により奇妙な形へ成長する。スーパー・マーケットで売っているような美しくまっすぐ伸びたにんじんや大根なんて、人工的な産物である。僕たちは、いろんな環境要因や障害で傷つきながら生きていく。僕も実に多くの障害物にぶつり、沢山傷ついてきた。その僕を奇妙な形にした環境要因を、これまで仕事をしてきたアフリカやアジアで撮ってきた写真を見直しながらたどっていく、というのがこのブログの趣旨である。

植物は約5億年前(オルドビス期)に地上へ進出し、次第に陸地を緑で覆っていった。植物の葉は、光エネルギーと水を利用して二酸化炭素から有機化合物を合成し(光合成)、その過程で水が分解されて酸素が放出されることは中学校の理科の生物の時間に習った。

しかし大気中の二酸化炭素濃度は、過去5億年の間一定であったわけではなく、大きな変化を遂げてきた。この変化は、植物の進化を促し、そしてその植物の進化は、他の陸上動物や昆虫の多様化に繋がっている。

「環境の変化」というと、その中で植物は受け身の立場であるかのように思われがちだが、実はそうではないのだ。地球の歴史の歩みは、植物が環境に影響を与え、その変化した環境が他の生物の進化に影響を及ぼす、すなわち、相互作用の結果としての歩みなのである。

でも、今、我々が環境に影響を与えているのはそんな生ぬるいものではない。人間が、生物として環境に影響を与えているのではないから。そしてその変化にかけた期間は、5億年では無く、せいぜい100年である。地球の年齢である47億年と比較すると、それは一瞬である。そしてそれは、産業と言う名の、経済という名の、かつて地球上にあり得なかった鋭い牙が、一瞬で環境を根元からえぐり取るような深い影響であることに気づかなければならない。

生物は、過去5億年の間に5回の「大絶滅」を経験している。2億年前(三畳紀ジュラ紀)絶滅は、大量絶滅と呼ばれ、当時陸上を支配していた多くの生物が絶滅し、たまたま生き延びた恐竜たちの繁栄のきっかけとなり、そして恐竜は地上を支配した。しかしその恐竜も絶滅し、翼を持つことができた恐竜だけが、鳥類となって今も生き延びている。次の「大絶滅」は、いつ起こり、どの生物が絶滅に瀕するのか。それは絶対に人間ではないと言い切ることは出来るのか。

5億年かけて、自然の環境変化のゆっくりとした相互作用により実にユニークな形に進化してきたアフリカの樹木を眺めなら、僕はそんなことを考えてしまう。

タンザニア内陸部(ドドマ州ムプアプア県)マサイステップ(高知草原)のバオバブの木。僕が見てきたバオバブは、いつも殆ど葉がない。この巨体をどうやって(光合成なしで)たもっていけるのだろうか。いつも不思議に思う。でも、この姿は実に雄大であり、アフリカのサバンナには、なくてはならない木である。

タンザニア東海岸沿いのムトゥワラ州で見つけたバオバオ。バオバオの多くは、マサイステップ(高原)で生息するが、こんな海岸で生息するバオバブも初めて見た。
それにしても、海辺のバオバブも実に絵になる。
海と空の青とのコントラストが、実に美しい。

ナミビアカラハリ砂漠で見つけた木のようなサボテンのような・・・、
これ、なんていう名前の木だろうか。
現地の人はボラボラと呼んでいたけど、もう、名前なんてどうでもいい。と思わせるほど、
実に前衛芸術彫刻的、岡本太郎の作品かと思わせるような美しさをもつ植物で、僕は何時間もここに佇んで見入ってしまった。
アフリカって、入場料を払わなくても、こういった芸術作品がみれるのがすごいと思う。

この樹木には枝は無い。そして木の先端に、頭に、オクラのようなかっこをした葉がなる実に不思議な木。
そのオクラ?の先にとまった、尾のなが~い鳥。なんて優雅でおしゃれな鳥なんだ!、と、非常にビックリしたので、樹木より鳥をアップしてしまいました。
それにしても、どんな環境要因に対応するために、この尾はこんなに長く、優雅になったのだろうか?僕はそんなことばかり考えてしまう。

葉が(ほとんど)無いのに、花が咲き乱れている木。
僕が植物学者だったら、これで3,4本は論文が書けそうな木。
それは幹も枝も花も真っ白で、青い空に実に映える芸術的な木でもありました。
やっぱりアフリカって、本当にカラフルだ!

開発って

僕たちの職業は、国内のクライアント(国、自治体)からは建設コンサルタントと呼ばれるが、海外のクライアント(先進各国の国際協力機関、開発系銀行、国際機関etc、ドナーとも呼ばれる)からは「開発コンサルタント」と呼ばれている。それは水資源、農業、交通、都市開発、電力、通信といったインフラ整備に係わるセクターから、医療・保健、教育、ガバナンス等のソフト分野も多い。

ネパールは、行き先を大いに迷っていた僕がこの道(開発コンサルタントの道)を歩むことを決めることになった地であり、それは1985年のことであり、実はそれ以来ネパールには行っていない。また行きたい、きっとまた行けるはずと思いながら、もう40年近く経ってしまった。

ネパールは、実は僕にとって、「開発しなくても良いのでは?」と思わせた国でもあった。このままの方が絶対に素敵だし、人々もとても幸せそうだと感じた国だった。あれから約40年、きっとかなり多くのドナーの支援が入り、開発は進んでいると思う。しかし僕はそれを想像したくない。それ(開発)で食っている僕としては、不適切な発言だとは思うが、僕は其処此処で神々が宿るあの歴史的なカトマンズに近代的な道路や建物ができるのを想像したくない。

現在、国連が国家として承認している国は196カ国あるが、そのうちの7割に当たる150カ国が開発途上国に分類されている。僕たちに報酬を支払ってくれるのはドナーだが、僕はこの150カ国の国々こそ僕の本当のクライアントだと思っている。そのクライアントさんに、心の中で、「本当に開発したいと思ってますか?」と問うたこと(国)はしばしばある。開発途上国の政府は、どこの国も大きな声で世界に対して「開発が必要だ」と訴え、それが正義だと自信を持っている。ただ、その国の国民は、本当はどう思っているだろうか。実は国民はそうは思っていない・・・、と結べれば美しいのだが現実は違う、と思う。

「思う」というのは、僕がそんなことをその国の住民に直接聞いたわけではないから。でも、実感としては、例えば日本の支援が入り、道路が、橋が、水道施設が建設されるとなるとその地域は大いに湧き上がる。それを僕は見続けてきた。しかしいつか、「開発される前の方が良かったんじゃないか」と思う人も少しずつ出てくると思う。日本を始め、今の先進国の人々のように。

古都、カストマンダップの町並み。
カストマンダップはネパールの首都「カトマンズ」の語源と言われている。古い寺院と人々の生活が一緒くたになっている。僕には、ここにも、あそこにも神が(仏様が)宿っているように思える。

カストマンダップの床屋さん。
シンプルかつ格好いい!ハサミさえあれば良いんだ、床屋さんなんて。でも僕は・・・・、日本に帰ってから髪を切ろうっと。

山間の美しい村。
カトマンズは盆地であるので、町を出ると急峻な山々が展開し、おとぎ話のような小さな村(写真中央)があちこちで見られる。ああ、なんて美しい村なんだろうと思って行ってみるとゴミだらけで汚ない。でも、それらは本来彼らが使っていなかったプラスチック製品が増えたから。これも開発のおかげ?。

カトマンズ盆地の東部にある古代ネワール人の都市。
ネワールは、ネパールの語源。写真はダルバール広場といって、17世紀に建造された王宮と一群の寺院。屋根にびっしりと生える滑りのある苔が美しい。

 

僕がこの道を歩むことを決めた地、ネパール

「空博くん、ひょっとしたら違う道を歩んでない?」

大学を卒業して、水資源のエンジニアリング会社に就職して、直ぐに途上国の水資源開発のプロジェクトに従事して飛び回り始めた頃、美大を卒業して仲間とデザイン事務所をやっていた友達にそう言われたことがある。彼女がなんでそんなことを言ったのか、僕はその理由はわかっていた。

実は大学に入学して2年目ぐらいから、僕は「これは違うのでは・・・」と思い始めていた。その思いは時が経つにつれ強くなり、それを思うと夜も眠れなくなった。僕は子供の時から、父の書斎にある膨大な蔵書や図書館の本を読みあさっては、一人でぼんやり空想をしていた。殆どは大正から昭和の文豪たちの作品だが、当然子供が読むような本ではない。いつもぼんやりしていたから、大学で何を勉強し、どういう仕事に就つくかということは、これっぽっちも考えたことが無かった。理系の成績がよかったのは、男の子の一般的な特徴であり、僕自身も特に好んで勉強していたわけでもなかった。

一方、絵を描くと、何かを造ると、必ず学校が市の展覧会や何かに僕の作品を送り、不思議と必ず賞をもらった。全国的な賞をもらったことも沢山あった。絵が好きだった訳ではない。もちろん習ったこともない。絵を描きながら、粘土をこねながら、こんなつまらないことはとっとと終わりにして、早く昨日の続きの本を読みたいと思っていた。中学校の卒業式では、式が終わって教室に帰る沢山の生徒をかき分け僕を追ってきた美術の先生が僕の両肩を強くつかみ、「空博くん、高校を卒業したらきっと美大に行くのよ」と僕の体を揺さぶった。それが最後であった。僕の芸術との関わりは。

高校生になると僕はますます本を読みあさり、そして空想に耽る毎日であった。そしてなんと大学の2年生になった頃から、初めて学問と職業の関係を考え始め、胸を掻きむしって悩み始めた。それはあまりにも遅すぎた。と、その当時は考えていたので、僕は胸を掻きむしりながら大学を卒業して、傷だらけの胸を隠すように白いシャツにスーツを着て、エンジニアリング会社の入社式に向かったのだった。

デザイン事務所の友達に、「違う道」と指摘されてから、僕はまた悩み始めた。タイの村々で、パキスタンアフガニスタン難民キャンプ(ペシャワール)で、僕は夜も眠らず胸を掻きむしった。デザイン事務所の友達は、当時芸術系の大学院にも籍を置いていた。そして僕にはだまって、僕の造ったいくつかのモノ ― それは彼女に楚々のかせられてチョコチョコっと僕が造ったモノ(忘れたが、なんかの図柄(絵では無かったと思う)だったと思う)― を大学院に先生にも見せ、僕をその大学の学士入学で受験することを強く勧めた。その頃、僕はネパールのプロジェクトに従事していた。一時帰国をして直ぐに受験の手続きを済ませた。ところがどうだ、受験の手続きが終わったら、途端に今の仕事を辞めることに対する不安に襲われた。そんな時期に、僕はカトマンズの外れにある、欧米系のバックパッカー集まる地域で一人の日本人と出会った。その人は当時40歳ぐらいだったと思う。誰でも知っている大手の電機メーカーの技術職だったが、カトマンズからロンドンまで1年かけてバスで陸路横断するツアーに参加するため会社を辞めたとのことだった。

「でも……、その後どうするんですか?」

僕が聞くと、「特に考えてない」と清々しい笑顔で答えた。

僕は将来の不安ばかり考えて、リスクを取らず、挑戦もせず、失敗しないことだけを選んで歩いている自分に対して、ひどく失望した。その日から僕は、芸術系の大学を受験するかとか、今の仕事を辞めるべきかとか、続けようかとか、そういう悩みではなく、極度の自己嫌悪に陥ってしまった。

話は少し前後するが、プロジェクトもその頃ひどい混迷に陥っていた。それは、プロジェクトのデザインにそもそも問題があり、ネパール政府の要望ともクライアント(ドナー)の思惑とも外れていた。このまま計画通りに勧めると、恐ろしいことが起きることは明白だった。Eメールなんて無い時代だった。僕は大学時代の恩師にファックスで状況を説明し、そして技術的に方向修正する方法を考え、先生にアドバイスを求めた。先生は大学に来る前、国連のプロジェクトのリーダーとして、ネパールの地下水開発に10年間も従事していたのでネパールの自然条件は熟知していた。そして帰国の度に先生と会って、議論を続けていた。その議論も終わりが近づき解決策が見えた頃、僕はカトマンズからロンドン横断旅行の日本人に遭遇し、自己嫌悪に陥ったのだった。

僕は先生にすべて話した。芸術系の学部の学士入学試験の手続きをしていること。この仕事を辞めるかもしれないこと。

長い沈黙の後、先生はポツリと言った。

「空博くんはもう造ったじゃないか、作品を」

そして僕が書いたネパールのプロジェクトの修正計画の書類を、僕の前にポンと置いた。

「これは作品だよ、しかも素晴らしい芸術作品だよ」

そして椅子をくるっと反転させ机に戻ると、「世界にはおまえを待っている国が沢山あるんだ。早く仕事に戻りなさい」と背中で仰った。

この一言が、今の僕を造った。そしてそれはネパールだった。僕はそれから、自分の従事したプロジェクトを心の中では「作品」と呼ぶようにした。もうずいぶん沢山の作品を造った。天国にいらっしゃる先生、僕はもうそろそろ先生の作品になれたでしょうか。

カトマンズからロンドンに陸路で横断するバス。出発の日、僕は見送りにいった。走り始めたこのバスの後ろ姿を見たときから、僕は極度の自己嫌悪に陥った。

今の僕を造ったのは、先生だけじゃなかった。
ネパールの、アフリカの子供たちも先生と一緒になって僕を造ってくれた。

そして何よりも、この神々しいネパールの寺院と町並み。
長い歴史の中で築かれた素晴らしい芸術と文化。
こんな素晴らしい作品を世界中で見ることができるこの仕事に、僕は感謝している
(余計なことですが、昔のネガフィルムって、こんな重厚な色のり絵が撮れるんですね。この頃はニコンFE2かF3、しかしネガフィルムは何を使っていたか、思い出せない)