奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

スワヒリという名の文化の融合

アフリカとの風景として僕たちがイメージできるものは、広大なサバンナの自然と多くの野生動物、そして槍を片手にサバンナを走るマサイ族(実際はものすごく沢山の種族がいるが)だろう。しかし後者に関して言えば、例えばケニアのナイロビでは、今やスーツを着てBMWに乗ってオフィスに行くマサイ族もいる。都会を離れてサバンナの一本道でたまたまマサイ族を見つけても、喜んではいけない。それはもう本来のマサイ族ではない。カメラを向けるとピョンピョンと跳んでくれるが、その後はお金をせびられるのがオチだ。

話がそれてしまった。

アフリカ大陸のインド洋に面した東海岸ケニアタンザニアモザンビークetc.)は、紀元前後から季節風を利用するインド洋交易圏の港市として栄えた。ここの風景は、我々が想像するアフリカ風景とは大きく違う。この写真を見てアフリカをイメージできる人は少ないと思う。

8世紀ごろからイスラーム勢力がおよび、ムスリムの商人による金、象牙、奴隷と、インド方面からもたらされる中国の絹や陶磁器などの交易の中心地の一つとして繁栄し、アフリカの人々とアラブ人やペルシア人との文化の交流、混血が進んだ。その過程で在来の文化が外来の文化を受容し、スワヒリ語に代表されるスワヒリ文化が12世紀ごろに成立した。スワヒリとは、アラビア語のサワーヒル(海岸)が語源とされている。僕はエジプトで長く仕事をしていたので、非常に片言であるが少しアラビア語がわかるので、タンザニアケニアスワヒリ語の中に沢山のアラビア語を見つけることができる。

写真は、そのスワヒリ文化で最も栄えたとされるタンザニアの小島、キルワ・キシワニ(世界遺産)である。キルワ・キシワニは、12世紀末に現在のジンバブエの産金地帯を結ぶ長距離交易路を支配するようになり、重要な交易都市に成長し、14世紀には東アフリカ最大の都市として全盛期を迎えた。我々のもつアフリカのイメージ(サバンナ、野生動物、マサイ族)とはかけ離れた風景であり、まさに文化の融合だなあと思わせる。

文化の融合は僕たちのすごく身近なところにも沢山あると思う。例えばカツカレー。とんかつ(フランス→イギリス→日本)を乗せたご飯(日本)にカレー(インド→イギリス→日本)をかけてできあがる。例を挙げればきりが無いが、文化の融合は「美しいもの」や「美味しいもの」や「楽しいこと」を、世界各地で生み出してきたのだと思う。

それがいつから融合できなくなったのであろうか。僕は歴史家ではないのでわからないが、おそらく大きな変わり目は15世紀以降のスペイン、ポルトガルによる大航海時代ぐらいなのかもしれない。資源、領土、権利 etc.、融合ではなく主張や略奪に変わっていった所以は。もう戻ることはできないのかなあ。

14世紀に建造されたフスニ・クブワ宮殿。当時の建築水準の高さを示すスワヒリ建築

キルワ・キシワニのグレートモスク

キルワ・キシワニのソンゴ・ムナラの遺跡群。背後にあるのはバオバブの木

おまけ
本当のマサイ族の子供。ピョンピョン跳んでくれないし、お金もせびらない。

もひとつおまけ
マサイ族と大切な大切な相棒、牛。仲良く並んで水を飲む姿がかわいい。





アラビアンなアフリカン

僕の拙いブログによく★をつけてくださるはてなのブロガーさんに、マンホールの写真を撮られてる方がいらっしゃいます。その写真がとても素敵です。マンホールってデザインされているのですね、と、当たり前なことに今更感動してしまいまして、これからは僕もいろんな国にいってマンホールの写真を撮りまくろうと思った。

そして、僕は一枚だけ、今僕が仕事をしているザンジバルのマンホールの写真があったことを思い出し、すごく時間がかかったけどやっと見つけ出した。

アフリカ大陸は、大きく分けるとサブサハラ(英: Sub-Saharan Africa、サハラ砂漠の下(南)のアフリカという意味)と、サハラ砂漠とその北側の中海沿岸の国々に分かれるられる。サブサハラのことを、ヨーロッパの人たちにはBlack Africaと呼ぶ人もいる。実際北側の人たちは、アフリカだけど宗教もイスラム教であり、人種もアラブ系に近い。多くの日本の人たちが想像するアフリカ、サバンナの大草原と野生動物と赤いマントのマサイ族は、サブサハラだ。

インド洋に面したアフリカ大陸の東海岸の国々、すなわちザンジバルタンザニアケニアウガンダブルンジルワンダコンゴモザンビークは、もちろんサブサハラでありスワヒリ文化の国である。言語ももちろんスワヒリ語。このスワヒリ文化は、アラブの文化とアフリカの文化の融合である。ザンジバルに関して言えば、8世紀ごろから今のオマーンをはじめとするムスリム商人がスパイスを求めてやってきた。その後はアラブ人による奴隷貿易の拠点となり、17世紀からはオマーン支配下にあった。このマンホールのデザインもその影響が色濃く残っている。おそらく、サブサハラアフリカの中でアラブの文化が一番色濃くのこっているのは、ザンジバルだと思う。

アラビアンなマンホール。

建物もアラビアン。ザンジバル・ドアと呼ばれている彫刻の入った木のドア。オリジンはもちろんアラブ様式。壁にもアラビア語で何かが記されている。

文化の融合って、きれい事だけではなくて、その過程でいろんな悲劇があったんだろうとは想像できる。でも融合してしまえば、融合による美しさは生まれるんだなあって思わせてくれる国です。ザンジバルは。そのあたりのことは、2023年8月12日のブログ「想像と調和」にも書かせてもらいました。融合はできるんですよ!

シンプルアフリカ

我々は物を買いすぎている(すみません、僕が最もそうなのかもしれないのですが)。アフリカの人々のシンプルな生活を見ているとそう思うことがある。そしてシンプルだけど、創造力にあふれていると思う。靴底の剥がれた靴、破れたシャツ、鼻緒が取れたサンダル、蓋が閉まらなくなったスーツケース、ストラップが取れてしまった鞄、etc. 何でも、僕が捨てようとすると必ずくれと言われる。そして数日後に完璧に直した「それ」身につけてオフィスにやってくる。靴なんてサイズが違うだろうに・・・、と思うが、それも自分のサイズにぴったり合わせて加工してくる。これには何度も驚かされた。

地方の村落に行くと、そのシンプルで創造力にあふれた生活が眩しいぐらいに輝いている。我々は(すみません、特に僕です)、物に埋もれながらなんて複雑怪奇な生活をしているのだろうと、アフリカの人々の生活に接していると感じる。じゃあ、おまえもこの村で残りの人生暮らせるか?と問われると・・・・、う~ん、Barも居酒屋も無いと・・・、ちょっと・・・、と尻込みをするとかもしれないが。考えるとこれは、ちょっと悲しいかもしれない。

タンザニア・コースト州の村
子供が多いこと、調理も食事も家の外で行うことがアフリカの村の概ねの共通点だ。写真は、お母さんが臼に入ったタロイモを杵でついているところ。杵と臼は、サハラ砂漠以南のアフリカでは多くの国で見られる。

木筋土コンクリート住宅の骨組み
家を作るときは村中の男達が集まって、あっという間に出来る。この骨組みに粘土質の土を詰めて乾かせば完成。

これでも現役
昨日は200km走ったそうだ。アフリカは何処の国でも日本の中古車が大人気。日本で10年前ぐらいのモデルを、彼らは新車と呼ぶ。

自慢の自作自転車
動力は無いので足で地面を蹴って進む。でも、ハンドルは機能する。たいしたもんだ。

おまけ
アフリカの生活を楽しむイギリス人の老夫婦が経営しているロッジのシャワーとトイレ。
コースト州に行くときはいつもここに泊まっていた。木からぶら下がっている麻のバックに水が入っている。ここにはBarもあれば食事もフレンチ。
所詮ここまでか?僕が出来るアフリカチックな生活は。







カラフルアフリカ

アフリカはとてもカラフルな世界だ。しかも原色の世界だ、と僕は感じている。非常に多くの種類の動物、鳥、植物、空、海、どれも色のりが濃くてクリアー。そして色彩豊かな人々の衣装、とてもカラフルでお洒落だ。僕はだからカラフルアフリカと呼んでいる。色彩豊かな植物が点在する赤い土のサバンナ高原、遠くの木々の間には動物が、そして空には見たことの無い大きくてカラフルな鳥が飛んでいる。そこに片手で槍を立て、赤いマントを羽織ったマサイ族の男でも立っていたら完璧だ。実にカラフル、そして格好いい!

タンザニアにはティンガティンガというペンキで描くアートがある。これは1960年代末、タンザニアで発祥した絵画スタイルで、創始者の名前 Edward Saidi Tingatinga(1932-1972)に由来している。Tingatingaは、サバンナの動物や豊かな自然、人々の暮らしを、たった6色のペンキを使って表現した。まさにアフリカを代表する現代アートだ。

ティンガティンガは僕が感じるアフリカをすごくよく表現している
素晴らしきカラフルアフリカ!

「それって、ひょっとしたらフィルムのカメラですか?」

僕をよく知らない人と一緒にアフリカに出張すると、彼らは僕のカメラを見て驚く。そして白黒のフィルムを入れていると言うと、もっと驚く。その気持ちはよくわかる。アフリカのカラフルさをカラーで撮影しないでどうするんだ!きっとそう思っているに違いない。

でも、僕がカラフルアフリカと呼ぶ理由は、実は色だけではないのである。アフリカの人々の暮らし、振る舞い、コミュニケーションの取り方、それらがすごく色彩豊かに僕は感じるのである。

という訳で、今回の記事は白黒写真でカラフルアフリカを表現してみた。

「こんなポーズでいいかしら?」
カメラを向けるととっさにポーズをとる姉弟。僕は思わず笑ってしまい手ぶれを起こしたので、早業でフィルムを巻き上げて撮った2枚目です。

井戸に水汲みに来た女性たち。
彼女たちの衣装も、水を入れるポリ容器も実にカラフルだが、なんと言っても彼女たちの笑顔がカラフルだ。

村の鉄工所。ドラム缶はアフリカにとって非常に重要な資源だ。ドラム缶1つあれば、鍋も釜もフライパンも包丁も、そしてなんと楽器も、なんでも作り出してしまう。
おそるべきカラフル。

包丁研ぎのおじさん。ペダルを漕ぎ自転車の後輪の回転で砥石を回してナイフを研ぐ。
Cool ! なんて格好いいんだ!

アフリカの人々の日常の暮らしに、僕はとても力強くてカラフルなアートを感じる。

変成岩

地球上の岩石は、その成因によって「火成岩」、「堆積岩」、「変成岩」の3種類に大別される。火成岩(例えば安山岩玄武岩etc.)は、マグマが冷えて固まった岩石である。熱を持つ地下深くでゆっくり冷えるか、火山の噴火により地上で急速に冷えるか、その冷え方の違いで結晶の成長状態が変わり多様な種類になる。

堆積岩は(例えば砂岩、石灰岩etc.)は、いろいろな起源をもつ粒子が地上や海中で堆積して固まったものである。砂岩は砂が堆積し、石灰岩は石灰質の殻を持つ生物(サンゴ、有孔虫等)死骸の堆積し、固まった岩石である。

そして変成岩(例えば片麻岩、大理石etc.)は、既にある岩石、すなわち岩石として形成された火成岩や堆積岩が、地殻変動により新たに高い熱や圧力を受けて編成した岩石である。この過程を我々は変成作用と呼ぶ。スリランカは国土の95%が変成岩により形成されており、地質学的にも非常に珍しい国である。スリランカは世界的な宝石の産地として有名だが、変成作用により原子が規則正しく配列し、結晶へ成長し宝石となる。ヒマラヤ山脈は、今から6,500万年前にインド亜大陸がアジア大陸と衝突して地殻が押し上げられ形成された。この地域の地殻変動運動の大きさは、容易に想像できる。

スリランカが美しい由来の大きな要素は、この大きな地殻の運動による圧力で生まれた変成岩だと思う。

しかし、人の心は岩石では無いので、圧力をかけても宝石のように美しいものは生まれない。生まれてくのは悲劇だけである。最近のニュースを見ていて、僕はスリランカの美しい変成岩を思い出し、そんなことを思ってしまった。

世界遺産のシーギリア・ロック。高さ195mの岩山で、先カンブリアン紀の片麻岩(変成岩)により形成されている。

やはり世界遺産の古都ポロンラルワの王宮跡。変成岩を使った建築が美しい

ポロンナルワ遺跡にあるワタダーゲ仏教遺跡。変成岩そのものも美しく、そして彫刻も素晴らしい





スパイス・ハーモニー

僕の1980年代の仕事はアジアが中心であった。アフリカも1~2ヶ月程度の短期出張は年に1,2度はあったが、ほとんどの仕事はアジアだった。しかも、インド、ネパール、パキスタンスリランカとカレー圏(僕はそう呼んでいる)の国が多かった。今では日本のどこにでもインド料理店(やっているのは何故かネパール人が多い)はあるが、当時は都内でも希だった。外でカレーを食べるとしたら、いわゆる食堂的なお店にいくか、蕎麦屋にいくしかなかったし、それらは小麦粉を使ったルウで作る日本風のカレーである。ルウで作るカレーではなく、スパイス・カレーを食べるとしたら、当時は新宿の中村屋か銀座のナイルレストランに行くしかなかった、と思う。

大学時代の僕は、小遣いは酒代に消えてしまうため、学食で100円だったカレーも食べることができなかった。どんぶり一杯30円のライスを買い、カレー・コーナーに置いてある無料の福神漬けとらっきょうをパラパラとかけ、ご飯と一緒に搔き込んでいた。カレーを食べている学生が羨ましかった。そんな日本のカレーではなく、僕はカレー圏の国々で、スパイスの奥の深さにはまったのだった。

インド、ネパール、パキスタンスリランカバングラデシュ、国は違うとカレーもやはり趣が違う。中でもスリランカのカレーは、かなり他の国と違う。まず辛い。インドもかなり辛いが、インドの辛さには幅がある。しかしスリランカのカレーの辛さは、一点を集中して針で刺されるような辛さだ。しかしこの辛いカレーに合う食材があった。それはカツオである。島国スリランカは漁業が盛んで、カレーも当然のごとくフィッシュ・カレーが中心である。どんな魚もカレーにする。他の国でカレーと言えば、まずはチキン、次にマトンではないだろうか。僕はスリランカで初めてフィッシュ・カレーを経験し、その中でもカツオのカレーの旨さに驚いた。コロンボの外国人相手のお土産物屋さんで、数種類のスパイスを小分けして袋詰めにし、英語のレシピも入っているスリランカのカレー・キットを発見した僕は、恐る恐る買ってみた。市場で魚と野菜を買い、そのカレー・キットで作ったのが僕の初めてのスパイス・カレーだった。

そして今、僕はスパイスの宝庫として有名なザンジバルで仕事をしている。ザンジバルに行く度に沢山の種類のスパイスを買い込んで、我が家でスパイス・カレーを作る。それが楽しく、そして実に美味しい。今はインターネットの時代、スパイス・カレーのレシピなど、英語も含めればいくらでも出てくる。少しずつスパイスの調合を変えてみると、また違う味が楽しめる。しかし、スパイス1種類では何者にもならない。単なるタマネギとトマトの炒め物である。僕は8種類から10種類のスパイスを調合する。カレーとは、まさにスパイス・ハーモニーが織りなすアートだと思う。

だから・・・、って訳でもないけれど、宗教だって、人種だって、考え方だって、1つだけではないのだから、それらのハーモニーが地球なんだって考え方が、何でできないのかなあと思うのは僕だけではないと願いたい。

漁港兼魚市場の近くの浜で魚を買う。市場だと小分けして売っていないので、まさかカツオを一本買うわけにはいかないので、小分けして売ってくれる仲買人みたいなおじさんが近くの浜で営業している。おこぼれを求めて猫が沢山やってくる

僕たちが仕事をするような地域では、昔はスーパーマーケットなんてなかった。
今でもないかな?ない方がいいかな?
市場に行って、土がついている野菜を買う

いま僕は、毎日パレスチナのガザのニュースを見るのがすごくつらい。つらいし、悔しい。
世界がハーモナイズすることは、子供たちが子供らしい笑顔でいられるための、最も重要なエレメントなのではないだろうか

 

歴史は繰り返されている

「聖なる光り輝く島」スリランカはしかし、紛争の絶えない国でもあった。スリランカの主な民族は、シンハラ人(74%、仏教)とタミル人(18%、ヒンドゥー教)である。シンハラ人は、紀元前に北インドから上陸したアーリア系民族であり、タミル人は、英国植民地時代に紅茶プランテーション労働者として南インドから強制移住させられた。シンハラ人とタミル人の対立の発端も、例外なく列強国の植民地支配に因るものであり、英国は"少数派"のタミル人を行政府官吏に重用して、"多数派"のシンハラ人を統治させる「分割統治」を行った。その結果、シンハラ人は貧しい農家になる一方、タミル人のみが優れた教育を受け、官吏以外にも商人や資本家など高い地位を占めた。これが民族間の確執へと発展する火種となった。

しかし、1956年の選挙で圧勝したスリランカ自由党(SLFP)は、分割統治によって虐げられてきたシンハラ人の利益を尊重する政治姿勢を打ち出し、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策を展開した。タミル人はこれに猛反発し、武装組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)を結成し、過激なテロ活動に発展した。

僕がスリランカ南部の半乾燥地帯における水資源開発のプロジェクトに就いたのが、2000年だった。ちょうどそのプロジェクトが終了した年の2003年、ノルウェーの仲介により政府軍(シンハラ)とLTTEの停戦合意が成立し、20数年続いた内戦が一旦終了した。日本はその機会をみて、北部の激戦地区に「水」と「医療」の支援をスタートさせた。当然のように僕はそのミッションの一員として派遣されることになった。

今回の記事の写真は全て“普通の”デジタルカメラでの撮影である。なんのカメラだったか忘れたが、たいしたカメラではない。このミッションは非常に危険だった。僕たちは政府軍の軍用機で飛んだ。だから、僕は大切なフィルムカメラを連れていくのに躊躇したのだ。今から思えば、そういう躊躇は良くなかったと思う。本当に写真を愛するならば、どんなときも本気で望まないといけないと、今は思う。

地雷原を示すドクロマークの赤い看板に、まるで漫画みたいだと僕は思った。本当にこんな看板があることに驚いた。北部、キリノッチ、ジャフナのエリアは至る所に地雷と不発弾が散らばっている。

地雷原の看板

つい先週、パレスチナガザ地区北部で病院が爆破され500名近くが亡くなった。イスラエルの攻撃だ、いやハマス誤爆だと取り沙汰されているが、こういう悲惨な過ちは何十年も、百年も前から繰り返されている。ジャフナの病院も完全に破壊されていた。

砲弾を受け破壊されたチャワカチュリ病院

軍用機を降り、町に着いた僕は、手足の無い人が多いことに直ぐに気づいた。大人だけで無く、子供も、女性も。小学校(中学校かもしれない)の壁に子供達で描かれていた、地雷や不発弾への注意喚起の絵が痛々しい。

子供達が描いた不発弾への注意喚起の絵

こちらは地雷の注意喚起。子供が描いたと思うと、凄く痛々しく感じる。

1994年のルワンダツチ族の大虐殺を始め、世界中で繰り返される民族紛争、そして今まさに起こっているパレスチナハマスイスラエル間の戦争、他にも数え切れないぐらい挙げられるが、これらは全て同様に列強国の植民地支配が発端である。

歴史はまったく学ばれていないのだ。