この時期になると、いつも思い出す。
あの時、僕はスリランカのプロジェクトに従事していた。コロンボの日本食レストラン、「日本橋」のカウンターで、肴をつまみながら熱燗を飲んでいた。カウンター越しに見えるテレビで、BBCのニュース番組を見ながら。番組は突然 Breaking Newsに変わり、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)に次々と航空機が激突し炎上する映像が、何度も何度も繰り返し流れた。
僕は最初この映像の意味がわからなかった。しかし、あの航空機には乗客も当然乗っているのではと思った瞬間、体の芯から全身の皮膚に向けて細かな振動が走った。カウンターの向こうの板前(日本人)は、包丁を握りしめたままテレビに顔を向け固まっていた。
それからの長い長い間、ホテルのテレビはWTCとアルカイダに占領され続けた。テレビの中でジョージ・ブッシュ大統領がWTCの瓦礫の山の頂上に立ち、拳を振り上げて口々に訴える群衆に向かって I can hear you (皆の声は聞こえるよ)と叫んだとき、僕はきっとアフガニスタンに行くことになると悟った。
同年10月7日の米軍によるカブールの爆撃と同時に、終わりのない泥沼のような対テロ戦争が始まった。僕は2003年にアフガニスタンに派遣された。かつての有事では日本は遅いと批判されたこともあったが、今回は他国の援助機関や国際機関とも足並みが揃っていると思った。
対テロ戦争開始前から、すなわちアルカイダに政権を奪われてから、水道施設を含むインフラ整備は完全に立ち後れ、そしてこの米・英軍の集中的な爆撃で、カブールは瓦礫の街と化していた。米軍のエスコートを付けて、僕たちは地下水の調査を進めた。
僕が大学を卒業してこの道に入り、一番最初に従事したプロジェクトは、パキスタンの北西部、カイバル峠に近いペシャワールのアフガニスタンの難民キャンプの水源開発であった。1979年のロシアのアフガニスタン侵攻により、数百万人の難民がペシャワールに避難していた。キャンプでは、安全な水と医療施設の不足から、毎日多くの難民が命を失っていた。
それから20年以上が経ち、2003年、カブールで調査をしていた僕は、あの当時、ペシャワールの難民キャンプでの我々の活動で命が守られた子供達のうち決して少なくない人数が、タリバーンの戦士になったのではと、想像したくもないことを想像していた。
写真は2003年当時のアフガニスタンの首都、カブール。泥沼の戦争の中でも、人々は生きている。日常を続けている。瓦礫のなかの靴修理のおじさんに、僕は仕事用のブーツを磨いてもらった。直ぐに埃まみれになるのは解っていたが。破壊されていたダルル・アマン宮殿を撮影する僕に、「これは我々ではなくアルカイダが破壊したんだ」と聞いてもいないのに説明をする機関銃を抱えたゴツい米軍の護衛兵。ロバにポリ容器を括り付け、遥か遠くの水源から水を運ぶ少年達。
この時期になると、僕は、いつも思い出す。