奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

入植者たち

アフリカの国々には、その国の国籍をもつヨーロッパ系人種(白人)の住民が思いがけず沢山いる。この傾向は、アフリカの中心部より南側が強いと僕は感じている。南アフリカ共和国の北に位置するナミビアでは、その傾向がさらに強い。南アフリカ共和国に関しては、ヨハネスブルグプレトリア等の都市部に行けば、圧倒的に白人の方が多い。僕に言わせればあの国は「南ヨーロッパ」である。

彼らは、列強国の話し合いや協定によってまっすぐな国境線が引かれ、「何とかの北」や「誰それの土地」みたいな名前が付けられたアフリカ国々へ、入植してきたヨーロッパ系人種の子孫だ。

南アフリカにおける白人入植の歴史は、1652年にオランダの東インド会社南アフリカ喜望峰を開拓したのが始まりだったとされている。ナミビアは珍しくドイツの植民地であったが、第一次世界大戦後に南アフリカ連邦に統治された経緯をもつ。

僕は世界最古の砂漠と言われるナミビアの「カラハリ砂漠」で1999年~2001年にかけて約2年間、地下水の調査をしていた。ヨーロッパ系ナミビア人の殆どは、広大な土地で畜産業を営んでいる。ナミビアビーフは、ヨーロッパにも高級肉として輸出されており、畜産業はナミビアの経済的な柱であった。しかしながらそのための地下水の過剰揚水により地下水位が年々低下しており、大きな問題になっていた。

カラハリ砂漠に入るとホテルは無いので、僕は調査現場に設営されたキャンピング・カーで活動を続けていた。しかし時々は、その広大な土地にぽつんとある大きなお屋敷(ヨーロッパ系ナミビア人の家)でお世話になった事もある。泊めてもらったことも、食事を振る舞われたこともあった。多くの人は、遥か日本から調査に来た日本人専門家チームの事は政府当局から知らされており、何処でも歓迎された。そして彼らの2世代、3世代前の先祖がここナミビアに、如何に大変な苦労を伴い移動し、何十年もどれほど懸命に開拓して農地を開いたか、美味しい南アフリカのワインを飲みながらその歴史を話すのだった。僕はそんな話を聞くのが好きである。冒険をしたことが無い僕にとっては、それらの話はどれもロマンがあり、その当事者たちからお話しを聞けるは楽しい時間だった。

彼らがまっすぐな線を引いたわけでも、国に無機質な名前を付けたわけでもなく、彼らはその後に自分たち生活のために知らない土地に入植して、開拓したのだから。世界にはそうやって開拓された土地は沢山あるはずであり、僕はそれらを否定するつもりはない。あまりにも多くの人口が、その社会・経済基盤(開拓)の上で人間としての生活を営んでいるのだから。ただ、それ(アフリカへの入植、開拓)も一種の開発だったとするのなら、もし、今、僕たちが何処の国の開発プロジェクトを実施する上でも絶対的に必須な、環境や社会や先住民やジェンダーに対する配慮がその当時に合ったとしたら、今の世界は全然違う様子になっていただろうなと思う。それが良い様子になっているか、悪様子になっているかは、僕にはわからないけど。

写真は、カラハリ砂漠で一晩お世話になったヨーロッパ系ナミビア人の農場主。ナミビアで仕事をしていると、国際協力としてアフリカで仕事をしている気にはならない。お屋敷の庭や倉庫には、南アフリカから移住してきた先祖の品々の歴史博物館のようになっていて、一品、一品、説明してくれた。何度ももう1泊していきなさいと勧められたが、次の調査地に行かなければならず、名残惜しくもお別れした。今でも元気かな。今度は日本の酒でももって、もう一度訪問したい。

数世代前の先祖がナミビアまでの入植でつかった馬車の荷台を説明するの農場主

先祖代々、開拓に使われてきた道具の博物館になっているお屋敷の庭

南アフリカからナミビアまでの移動で実際に使われた鞍具

収穫されたカボチャとお屋敷の壁が妙にシンクロしていて美しい

カラハリ砂漠で見つけた自動車の化石?当時はランドローバーもゲレンデ・ブァーゲンも無かったのに、よくこんな車で砂漠をわたってきたものだ。