奇妙な形の野菜たち

Literature, photograph, music, guitar, and alcohol (sake, whiskey). What I love and never stop

まっすぐな国境線

前回は国の名前について書いたので、今回は国境線について考えてみたいと思う。大陸での国境は一般に、山や川,湖などの自然の地形に沿って曲がりくねったものが多い。しかし世界地図を広げてアフリカ大陸を見ると、まっすぐな一直線の国境が目立つ。僕はスーダンに行くと、この「まっすぐな国境線」を強く感じる。特にスーダン北部のエジプトとの国境では。

アフリカの国々の国境に直線が多いのは,緯線や経線(緯度、経度の線)を国境にしているからである。19世紀からヨーロッパ列強国はアフリカに進出し,植民地化してきた。やがて列強国はアフリカで自国領域を広げようとして対立を始めた。そこで,19世紀末に列強国どうしが話し合い,原住民の民族性や文化を考慮せずに緯線や経線で地域を分け、ぞれの国の範囲を決め,アフリカを分割した名残が今のアフリカの国境線なのである。
これによってアフリカでは,1つの民族なのに他国にされてしまったり,いくつもの民族が1つの国にされた。アフリカで民族紛争が多いのも、そもそもの原因にはこの歴史がある。

分割したのは列強国の領土(すなわち今のアフリカの国々)だけではない。アフリカでは非常に貴重な水資源も分割されている。

世界一長い河川であり、世界四大文明の一つである「エジプト文明」の泉とも言えるナイル川は、白ナイル川青ナイル川アトバラ川の3つの恒常河川(季節を問わず流量がある)がスーダン中部で合流し、ナイル本流(Main Nile)としてスーダン北部とエジプトを流れて地中海に流出する。

ナイル川流域国は10カ国(南スーダン分離前)におよぶ国際河川であるため、水利用に関する国際協定に基づきいている。この国際協定は、基本的に二つの協定に基づいている。それらは、1929年にエジプトと英国(当時東アフリカを植民地としていた)が結んだものと、1959年にエジプト(英国領)とスーダンが結んだものである。このうち、1959年の協定は、アスワン・ハイダム(エジプトとスーダンの国境の北側、エジプトの水瓶とも言える)の建設を睨んで結ばれた。協定では、ナイル本流の水量を840億m3/年と規定し、555億m3/年の取水権をエジプトが、185億m3/年をスーダンが取水権が持つとした。それでは残りの100m3/年(840-555-185=100)はなんであろうか。それはアスワン・ハイダム湖、すなわちエジプト側で蒸発してしまう水量なのである。スーダンのダムや河川でも水は蒸発するのに、エジプト(当時の英国)だけが自国での蒸発量を担保しているのだ。

ナイル本流に注ぐ3つの恒常河川のうち青ナイル川アトバラ川エチオピアが源流である。エチオピアは大エチオピアルネサンス・ダムを建設し、2020年から貯水を始めた。エチオピア政府は、「貯水に他国の同意を得る法的義務はない」としている。3つの恒常河川以外にも無数に支川は存在するが、その全ては間欠河川(雨期、スーダンでは6月~9月)であり、スーダンの国内だけでも水利用に関する上流側と下流側の多くの対立は収まることを知らない。

スーダンの水資源不足は非常に逼迫している問題である。

写真はカッサラ州のガシュ川流域、これだけの大河川でも流量は雨期の期間だけに限られ、乾期には荒涼とした河床が現れる。その傍らには、家畜のヤギに水を与えるために遥か遠くの水源に移動する少年。背後の山に木が一本もないのが、我々にとっては不自然な光景である。ロバにポリタンクを括り付け、幼い兄弟を背負い水を汲みに少女。

これらの現実は、国境線と同様、「話し合い」「協定」によってもたらされているのだ。

広大なガシュ川。スーダンや中近東ではワジと呼ばれる間欠河川が無数に広がる



 

ガシュ川の辺を羊と共に水源を求め移動する少年

ロバと水を汲みに行く少女。幼い兄弟を背負い、どこまでも歩いて行く